ノックスビルの歴史と観光

★開拓時代 ★テネシー大学と南北戦争 ★復興と発展 ★テネシー渓谷開発公社とマンハッタン計画


 冒頭の記事では18世紀末にノックスビルができたところまでお話ししましたが、この記事では、その後の歴史を振り返りながらノックスビル周辺のご案内をしてみましょう。

==========≪開拓時代のノックスビル≫==========

Gay Street Bridge

 ダウンタウンの南端を流れるテネシー川の河畔にボランティア・ランディングという公園があります。東西に長い公園で、ダウンタウンの中央通ゲイストリートの橋の東側に、ノックスビル発祥の地ホワイト砦やホルストン条約の記念碑があります。付近には、今でもモーターボートのマリーナ遊覧船(Star of Knoxville)の発着所があるくらいですから、昔はここに蒸気船の桟橋(Landing Bridge)があったのでしょう。「ボランティア」といえばテネシー人の代名詞ですから、ホワイトさんや私たちテネシー人の先祖はこのあたりで上陸したんですよ…というも含まれているのかもしれませんね?

Henley Street Bridge

 初期のノックスビルは、テネシー川を下りさらに西部に旅する人々や移民の宿場町として賑わいました。地元産のタバコやトウモロコシ、ウィスキーなどを積み出してディープサウスの綿花を持ち帰る蒸気船が行き交いました。1855年には、アトランタ経由で大西洋に通じる鉄道が開通しました。

 公園の中央部には、市庁舎のビルから歩道橋が通じています。公園の最西端ヘンリーストリート橋の西のたもとからは、上流のホルストン川とフレンチブロード川合流点まで蒸気機関車の旅(Three Rivers Rambler Train)ができます。

==========テネシー大学と南北戦争==========

University of Tennessee in the 1800s

 ダウンタウンの西には、アパラチア山脈の西では最も古い大学のひとつ=1794年創立のテネシー大学のキャンパスがあります。州立総合大学で学生は院生も併せて3万人弱、フットボールと女子バスケットボールが自慢です。

Neyland Stadium

 体育会のチーム名はボランティアズ(Volunteers=略称:Vols)。全米第3位で10万人の収容人員を誇る大フットボール競技場ネイランド・スタジアムは1926-52年にかけて活躍した名コーチのロバート・ネイランドを記念して名付けられました。コーチとしての生涯戦績は173勝31敗12分け全米優勝4回、その間6シーズンは軍務で休み、陸軍でも准将(少将の下の階級)まで上り詰めたという伝説のコーチです。

 ウェストポイント陸軍士官学校でフットボールのスターだったネイランドは、まずニューヨーク・ジャイアンツの誘いを断り第一次大戦で渡仏しました。帰国してマサチューセッツ工科大学で工学を修め士官学校に戻ると、マッカーサー校長(後の極東司令官)の副官を勤める一方でフットボールのアシスタント・コーチの職に就いたそうです。さらに1926年にテネシー大学の軍事学教授に転じて大コーチの道に踏み出します。1938-40年の第一期黄金時代(勝敗11-0, 10-1, 10-1)には半ばで第二次大戦に出征、1950-52年の第二期黄金時代(勝敗11-1, 10-1, 8-2-1)には、あっさり引退してしまいました。

 女子バスケットボールは、1997秋-98年春のシーズンに39勝無敗で3年連続優勝という大記録を打ち立てました。1999年には、ボランティア・ランディング公園に女子バスケットボールの殿堂(Women's Basketball of Fame)が創設されました。


Christ Chapel @ Fort Sanders

旧称Epworth Methodist Church

House on Laurel Avenue (1894 built)

 …南北戦争では、開戦から3年目の1963年夏に、西部戦線で北部(合衆国)の優勢な状況が生まれました。9月に無血入城した北軍は、もともと北部支持者が多数を占めるノックスビル市民に温かく迎えられます。

 イーストテネシーは、渓谷の土地柄、奴隷労働に頼るプランテーション(大規模農場)が数少なく、黒人奴隷の境遇にも同情的な人々が多かったのです。

 しかし、11月になると南軍部隊が戻って来てノックスビルを包囲します。テネシー大学は、隣接する北軍陣地フォート・サンダースへの砲撃の巻添えで、一時は再建も危ぶまれたほどの損傷を受けてしまいました。周辺には、その後、19世紀から20世紀にかけて写真のような豪奢な住宅街ができて、今は歴史的建造物群保存地区に指定されています。

==========南北戦争後の復興と工業化==========

Knoxville Knitting Works (1910 ⇒拡大

中心部のパブ (Old City) 

 南北戦争後のノックスビルは、北部からの投資資金と労働者の流入により、繊維、食品、製鉄など多彩な産業が集まる工業都市へと成長しました。1880〜87の8年間に97の工場が設立されたそうです。1890年代には50社の卸問屋が軒を連ね、ノックスビルは南部で第3位の商業都市になっていました。

 ダウンタウン北の古い倉庫街も、19世紀末の建築です。1980年代にニューヨークの倉庫街ソーホーが脚光を浴びるようになってから、オールドシティーの名の下でオフビートな飲食店やバーの街に生まれ変わりました。

ありし日のパビリオン (Chilhowee Park)

 市内東部のチルホウィー公園では1910年にアパラチア博覧会が開かれました。南北戦争前の1836年に開かれた由緒ある公園です。当時のパビリオンは焼失してしまいましたが、今でも毎年9月にイーストテネシー・フェアの会場を提供しています。周辺にはノックスビル動物園ディスカバリーセンター(子ども博物館)もあります。

 アイヤムズ自然センター(Ijams Nature Center)も、先進的な自然保護思想に基づいて開設された野生のサンクチュアリ(聖域)で2010年に100周年を迎えました。

World's Fair Park

 繁栄の陰で移民労働者は過酷な環境に甘んじていました。写真でごらんのように、ノックスビルの工業化をリードしたメリヤス工場の労働は少年少女が支えていました。

 同系列のノックスビル鉄工所(Knoxville Iron Works)は、現在の都心の一等地…跡地は、一世紀後(1982年)に、ワールドフェア(国際博覧会)の開催地に選ばれました。呼び方は違っても万博のことです。

 ワールドフェア公園には、シンボルタワーのサンスフェアー(Sunsphere=太陽球)が残っています。高さは81m。六角トラス(格子)を組み上げた鉄塔で、塔頂にはブロンズガラス製で直径23mの球体が鎮座しています。さしづめ大阪万博公園の太陽の塔ですね。

==========テネシー渓谷開発公社とマンハッタン計画==========

 そういえば、ワールドフェアのテーマは「エネルギー」でした。イーストテネシーは水力エネルギーの宝庫…電力を浪費するアルミ精錬の巨人アルコア社(Alcoa)がメリビルに工場を作ったのは、テネシー渓谷開発計画でダム開発が本格化する20年以上前で1910年のことでした。テネシー渓谷開発公社(Tennessee Valley Authority)の本社ビルTVAタワーはノックスビルのダウンタウンにあります。第1号のノリスダムや東のビッグリッジと西のコウブレイクの両ダム(州立公園)は、ダム開発と環境整備の両立を目指すモデルプロジェクトでした。

 オークリッジの国立研究所(Ntional Laboratory)では、第二次大戦中に原爆開発のマンハッタン計画が秘密裏に進められていたのです。オークリッジには、アメリカ科学・エネルギー博物館があります。

指定したサイズでウインドウを表示