「テネシー・e-ガイド」のページ
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Tennessee e-Guide
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テネシー州とアメリカ音楽文化
1999年
Grand Ole Opry (June Carter Cash演奏) |
最近はニューヨークなど大都会に一歩ゆずるものの、テネシー州は長い間アメリカ音楽文化の発信地でした。ナッシュビルでカントリー&ウェスタンのラジオ公開放送「注グランド・オール・オプリ」が始まったのは1925年、世界初のラジオ放送からわずか5年後…以来時と共にFMやテレビなど新しい放送形態を加えながら80年を超えて今日に至る驚異の長寿番組です。
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注
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グランド・オール・オプリ(Grand
Ole Opry)は、グランド・オールド・オペラ(Grand Old
Opera)の南部なまりです。
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移民の国アメリカで生まれ育った音楽には、大きく2つの流れがあります。一つは、イギリス人とアイルランドやスコットランドからの移民が持ち込んだ民謡をベースに生まれたフォーク・ダンス系の音楽です。バイオリン(弾き方が違うので普通はフィドルと呼ばれます)が付き物ですが、よく聞き比べてみるとスコットランドのバグパイプの旋律に似てはいませんか?これに、ギターやマンドリン、アコーディオンなどと、黒人の楽器から進化したバンジョーが加わって出来上がりです。もとは「オールド・タイム」とか「注
ヒルビリー」と呼ばれアパラチア山脈地方の一帯で歌われていましたが、交通網の発達や蓄音機・ラジオの発明により各地に拡がっていきました。ケンタッキーのビル・モンローに代表される民謡色の濃い「ブルーグラス・ミュージック」に対して、他の音楽の要素を取り入れてより自由に変化していったのが「カントリー&ウェスタン」なのだそうです。
| 注 |
ヒルビリーとは、1690年にオレンジ公ウィリアムズ(愛称:ビリー)がジェームズ2世のカトリック軍を破ったときに味方したプロテスタントのスコットランド人を、山岳地帯に住むウィリアムのサポーターという意味で「Hill-Billies」と呼んだことに由来するようです。 |
これに対して、ディープサウス(南部中の南部で黒人が多い地域)では、ゴスペル、ジャズ、ブルース、ロックンロールなどアフリカの民俗色濃厚な音楽が生まれ、ミシシッピー川を行きかう船の中でアメリカ的な音楽へと変化を遂げていきました。
そこで、南北の音楽の交差点になったのがテネシーです。中部テネシーでは、白人文化がリードして、洗練された新しい時代の音楽「ナッシュビル・サウンド」が生まれました。西部テネシーのメンフィスには、ロックンロールとヒルビリーが融合して「ロカビリー(Rock+Hillbilly)」と名付けられた新ジャンルの音楽のスター
エルビス・プレスリーが登場しました。
という訳で、テネシー州諸都市のご紹介には、各地にちなんだ以下の歌や曲を引用させていただこうと考えました。
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メンフィス

メンフィス・テネシー
チャック・ベリー作曲 |
ナッシュビル

テネシー・ワルツ
パティー・ページ歌 |
ノックスビル

デビー・クロケット
TVドラマ主題歌 |
チャタヌガ
チャタヌガ・チューチュー
グレン・ミラー楽団 |
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東部⇔中部⇔西部:テネシーの地理と歴史
ケンタッキー州とテネシー州は、初期の西部開拓時代に活躍した双子です。2つの州の運命を分けたのは、ケンタッキーの土地はインディアンが比較的簡単にあきらめたのに対して、テネシーでは長期にわたってインディアンの抵抗が続いたことです。
左の地図を拡大して見てください。矢印のように、テネシー川は州の東部でいったん南行し西部であらためて北行しますが、テネシー州は、州旗の三ッ星が象徴するように、東西テネシー川を境界にして東部・中部・西部の3州域(Grand
Division)に分けられています。
地理上の分類でも、東部はアパラチアの山脈と台地、中部は内陸低台地、西部は沿岸平野と明らかに性格が違うのですが、わざわざ州が法律で地域を分けたは、歴史や文化、産業もそれぞれ大きく違うからです。
最初に入植が進んだのはナッシュビル盆地を中心とする中部です。アパラチア山脈の東から、山越えで入植者がやってくるようになった独立戦争(1775-83)の頃、東部・中部のテネシー一帯を押さえていたのはチェロキー族インディアンでした。開拓者たちは、1775年にチェロキー族からカンバーランド川以北のケンタッキー一帯を買ったのですが、一部が川沿いに進んで今日のナッシュビルを築きます(1779年)。ですから、ケンタッキーの南部地方は今で中部テネシーとの精神的結びつきが強いと言われています。入植からまもなく綿花の栽培が始まり、ナッチェズ・トレースと呼ばれる陸路でミシシッピー川下流のナッチェズ港から船積みされていたのだそうです。
東部は、チェロキー族の本拠スモーキー・マウンテン(アパラチア山脈南部)のふもとで、テネシー川渓谷に沿う山深い一帯でした。白人のインディアン居留区への違法侵入を連邦政府が取り締まれず、入植者とチェロキー族との間でチカマウガ戦争(1776-94)と呼ばれる激しい抗争が続きました。
1791年に今日のノックスビルで調印された条約を契機にチェロキー族とは休戦にこぎつけますが、1812年の第二次米英戦争の際にアラバマとジョージアでクリーク族が白人入植者を襲うと、後の第7代大統領(1829-37)アンドリュー・ジャクソンがテネシー州民兵(義勇軍=ボランティア)を引き連れて出陣するなど、周辺では、インディアンとの抗争がその後も継続したようです。
1828年にジョージア州北部で金鉱が発見されると、ジャクソン大統領は1830年にインディアン移住法を定め、チェロキー族は(途上で4千人が死亡する)オクラホマへの「涙の旅路」を強いられました。これで最終的に東部全域が植民者の土地になります。
東部テネシーはプランテーション農業には不向きな地域で、当然、奴隷制度にも無縁でした。南北戦争で西部と中部テネシーが南部連合に参加を決めた際にも最後まで反対したことで知られています。
西部はテネシー川とミシシッピー川に挟まれた一帯です。もとはチカソー族インディアンの狩猟場でしたが、1818年の「ジャクソン購入」を機に白人の入植が始まりました。
この地域はテネシー3州域の中で一段と南部的です。アメリカ南部を「アッパー」と「ディープ」の2つに大胆に区分すると、東部と中部テネシーは間違いなく「アッパー・サウス」ですが、西部テネシーは「ディープ・サウス」…この地方のために、特に「ミッド・サウス」という言葉もあるそうです。
テネシー州の印章をごらんください。「農業」と「通商」の文字と「綿花」と「船」の絵が往年の西部テネシーの繁栄を物語っています。黒人奴隷を使役して大農場で栽培された綿花は、収穫後メンフィス港からミシシッピー川を下り、ジャズの都ニューオーリンズで積み替えられて、海外に輸出されていきました。今でもメンフィスの人口の6割は黒人です。
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川と湖と電力:テネシー渓谷公社(TVA)
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テネシー川とカンバーランド川流域の発電所
(赤=水力, 紫=原子力, 黄=火力) |
昔、中学の社会科で「ニューディール政策」というのを習ったはずですが、覚えておられますか?1929年の大恐慌から不景気にあえいでいたアメリカを救ったルーズベルト大統領(1932-45)の積極財政=内需拡大策で、その目玉が「テネシー渓谷公社法」でしたね。
巨大なアメリカの経済を「たかが1本の川」が救えるものかしら?と永年不思議に思っていたのですが、右の図を見つけて目からうろこが落ちました。テネシーは至るところ川だらけダム湖だらけ、テネシー川とカンバーランド川の流域はケンタッキーやジョージア、アラバマなどの周辺州に大きくはみ出しているではありませんか。もう少しで日本の本州に匹敵しそうなサイズです。
テネシー渓谷公社(TVA=Tennessee
Valley Authorityy)ができた1933年当時の東部テネシーは全米でも際立って貧しい地域で、住民の3割がマラリアを患っていたのだそうです。TVAはダムを造り電力と地域住民の就労機会を生み出していったばかりでなく、やせた農地を施肥により回復させたり、無秩序に伐採された森林に計画植林して山火事を防止する事業も併せて実行しました。文明から取り残されていた民家に電燈の灯がともり、安い電力を目当てに多くの紡織工場ができてテネシー州周辺が工業化していきました。
ノックスビルの南(メリービル付近)にアルコア社のアルミニウム精錬工場ができたのは1910年のことでしたが、第二次大戦で飛行機用に大量のアルミニウムが必要になると、TVAはダムを増設して電力需要に応えたのだそうです。巨大化したアルコア社は、当時は独占禁止法で解体される危機に直面していましたが、開戦後、後の33代大統領トルーマンが「アルコアだろうがアル・カポネ(シカゴ・マフィア)だろうが、アルミニウムをくれる奴が誰だろうとかまわん」と言ってアルコア社の後押しをしたのだそうです。
その頃、ノックスビル西方のオークリッジでは、極秘裏に、豊富な電力を使い、ウランとプルトニウムを分離精製して原爆を作る「マンハッタン計画」の研究が進んでいました。中学の社会科では教わりませんでしたが、テネシー渓谷公社は、日本の敗戦に深く関係していたのです。
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テネシー・ウィスキー

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