エルパソとリオグランデ川(ビッグベンドカントリー地方)

El Paso & Big Bend Country Region


 「ビッグベンド」は「大曲がり」…大きく蛇行する河川に名付けられる愛称ですが、数ある中で最も有名なのがリオグランデ川…国立公園の付近は両岸が切り立った渓谷です。「ビッグベンドカントリー」は、大曲りせず北上する支流ペコス川とリオグランデ川に挟まれた山岳地帯で、河岸のエルパソでも海抜が1140mもある高地です。

ビッグベンド国立公園…中央の渓谷がリオグランデ川(⇒撮影地点)

サンタフェトレイルと1880年代初期の鉄道(⇒拡大)

 エルパソは、メキシコ領ヌエボメキシコ県の県庁所在地サンタフェと首都メキシコシティをエルカミーノレアル(王立国道)で結ぶ南北の交通の要衝でした。1821年にはミズーリからサンタフェトレイルという通商路が開かれ、エルパソは、米墨戦争で、アメリカ軍がメキシコ中央部や南カリフォルニアに攻め入る突破口の役を果たしました。

米墨戦争(1846〜48年)の経過(⇒拡大)

 1881年に、ロサンゼルスからの鉄道とサンタフェトレイル-シカゴ方面、ダラス-セントルイス方面、ヒューストン-ニューオリンズ方面の鉄道が相次いでエルパソで出会うと、今度は東西の交通の要衝として脚光を浴びました。すると、各地から血の気の多い人々が押し寄せ、メインストリートに酒場やダンスホール、賭博場、売春宿が立ち並ぶようになったのです。その頃のエルパソの愛称が「六連発の首都(Six Shooter Capital)」…正にワイルドウェスト(荒れる西部)の見本でした。

五秒四死の銃撃戦 (Four Dead in Five Seconds Gunfight)

 1881年の4月11日。アラバマ生まれのスタウデンマイヤーがやってきた。その頃、エルパソでは、8ヶ月に6人の保安官(マーシャル)が変わっていた。町は、二挺拳銃の達人で気の短い元テキサスレンジャーに、治安を回復してもらおうと考えたのだ。

 3日後だった。消えた30頭の牛を探しに出た仲間のカウボーイが行方不明になって、75名の武装メキシコ人がエルパソの町に押しかけてきた。しかし、すぐに公正な捜査が行われ、牛を盗んでカウボーイを殺した犯人が捕らえられる。メキシコ人は牛を連れて帰って、取敢えず一件落着。

 が、一刻の後。牛泥棒の黒幕が酒場で飲んでいた。仲がいい元保安官とふたりで、捜査でメキシコ人の肩を持った巡査にからむ。酔ったはずみで巡査を銃撃。巡査も応戦した。

 スタウデンマイヤーは、向かいの食堂で銃声を聞いて駆けつけ、直ちにふたりを射殺する。巡査も息を引き取った。スタウデンマイヤーの流れ弾に当った気の毒な部外者を加えると、一瞬のうちに四人が死んでしまったことになる。これが、同じ年の11月に起きた「OK牧場の決闘」と並んで西部史に名高い「五秒四死の銃撃戦」の一幕。

 さらに3日後の夜、スタウデンマイヤーは、ショットガンで闇討ちしてきた殺し屋を、腰につけた拳銃一丁で倒す。そして、続く10ヶ月の間に6人を容赦なく射殺したから、悪人たちはスタウデンマイヤーに震え上がり、エルパソの町に平和が戻る。しかし、他所者のスタウデンマイヤーは地元のボスににらまれていた。1881年9月には、和解話がこじれて銃撃戦になった。止めに入った友人の行動が裏目に出て、身体のバランスを崩したところを撃たれ、ガンマンはついに落命する。

 今のエルパソの犯罪発生率は、全米平均よりむしろ低いのでご安心ください。でも、国境を越えると、麻薬密輸組織などが暗躍して凶悪な事件が起きているようですから、気をつけましょう。高地で過ごしやすいエルパソには、長野県諏訪出身のエプソンなど日本企業も進出していて、補習授業校もあります。

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