「ユダヤ人とイスラエル」検定…入門編
パレスチナ国連加盟でアメリカは反対、日本は賛成
11月29日に、国連総会でパレスチナがオブザーバー国として国連に加盟する是非について投票が行われ、■賛成138ヶ国、■反対9ヶ国、■棄権41ヶ国、■欠席5ヶ国の大差で可決されました。
日本をはじめ、国際問題でいつもアメリカに歩調を合わせる国の中にも、この日だけは賛成に回った国が少なくありません。
反対9ヶ国といっても、本気で反対したと見られるのはイスラエルとアメリカ、カナダのほかにはチェコの4ヶ国。残りはアメリカの信託統治領だったパラオなど太平洋の島々とパナマで、アメリカの意向に従っただけでしょう。カナダは国家経済がユダヤ系の財閥に握られているようなところがありますから、反対はもっともです。
イギリスやカナダ以外のイギリス連邦の国々が反対でなく棄権に回ったのには隔世の感があります。ユダヤ人に縁が深い東欧・中欧の国々も棄権しました。
今回は、日本で、あまり教えられることのないユダヤ人と中東の歴史を、さわりだけご案内します。
ユダヤ人と古代イスラエル王国
エジプトで紀元前1207年に書かれた石碑に「イスラエル」の名が記されています。聖書では、モーゼがユダヤの民を率いて約束の地カナンに帰ろうとした「出エジプト」の時代に当たるそうです。
ダビデの星 |
イスラエルは、紀元前995年頃、エルサレムを中心に統一王国を築きました。2代目のダビデ王の時代です。
3代目ソロモン王の死後に南北に分裂、北は紀元前721年にアッシリアに滅ぼされます。南は紀元前586年に新バビロニアに滅ぼされました(バビロン捕囚)。
その後、紀元前539年には新バビロニアが滅亡して一部のユダヤ人が帰還しました。さらに、紀元前143年には王国が復活するものの、間もなくローマ帝国の傘下に入ります。
キリストの時代は、ちょうど新約聖書に登場するヘロデ王が死に、ユダヤがローマ総督直轄の属州に変わる時期でした。
紀元135年に、反乱を繰り返すユダヤ属州に手を焼いたローマは、わざわざ千年も昔に消えたユダヤの敵ペリシテ人の名を復活して、地域をパレスチナ属州と改名…ユダヤ人を弾圧しました。本格的なユダヤ人離散の歴史の始まりです。
ポーランド分割とシオニズム
ユダヤ人は世界に散らばっていきましたが、他民族に同化せず、ユダヤ教を軸に民族のアイデンティティーを守り続けて各地で迫害を受けることになります。
中世ヨーロッパでは、キリスト教徒にいやしまれる金融業に進出して、ユダヤ人には狡猾な金貸しのイメージが付きまとうようにもなりました。特に西欧で嫌われたユダヤ人は、13世紀に蒙古に攻め込まれ荒廃したポーランドに信教の自由を保障され、次第に東欧に移住していきました。
しかし、ポーランドは1795年にプロシャ・オーストリア・ロシアの3ヶ国に分割され、国がまるごと消えてしまいます。ユダヤ人が頼りになる庇護者を失ったところで19世紀が訪れ、ヨーロッパのナショナリズムがは最高潮に達し、各地で大規模な反ユダヤ暴動が頻発するようになりました。
一方で、ユダヤ人のナショナリズムも起こります。エホバ(ヤーヴェ)の神に約束された地に帰還しようというシオニズム運動。シオン山(Mt.
Zion)はエルサレムの南東にあった小さな丘で、「シオン」はエルサレムの別称です。
ヨーロッパの火薬庫…バルカン半島
第一次世界大戦は、16世紀からバルカン半島を支配してきたオスマントルコが衰え、スラブ系諸民族のナショナリズムが高まる中で起きました。
「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」
といわれた旧ユーゴスラビアが崩壊して内戦が起きたのは記憶に新しい出来事ですが、全ては19世紀末から続く近縁者間の抗争です。
オスマントルコは、露土戦争(1877〜78年)でロシアに負け、バルカン半島ではセルビア・モンテネグロ・ルーマニアの3公国が独立しました。しかし、大国の駆け引きの中、ボスニア・ヘルツェゴビナだけはオーストリアに編入されてしまいます。
ブルガリアもマケドニアを含む大ブルガリア公国となるはずでしたが、ロシアの南下を恐れるイギリスの反対で南部を切り離され、マケドニアもオスマントルコの支配下に残ることになりました。
しかし、1908年にオスマントルコで青年トルコ党革命が起きると、ブルガリアは南部を併合して独立します。1912年にはセルビア・モンテネグロとギリシャとともにバルカン戦争を起こしてマケドニアを奪還…と、ここまではいいとしても、分け前をめぐり仲間割れして、今度は3ヶ国を相手に戦争。さほど、ナショナリズムは偏狭です。
一方、南スラブ系民族の盟主を自負するセルビアは、セルビア系住民の多いボスニア・ヘルツェゴビナに野心を抱いていましたが、オーストリアは先回りして1908年にボスニア・ヘルツェゴビナを正式に自国領に併合しています。
このようにきな臭い情勢の下、1914年、オーストリア皇太子が、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボでセルビアの民族主義者に殺される事件が起きました。オーストリアは、それを口実にセルビアに宣戦布告。第一次世界大戦が始まります。
大国は、その都度、ご都合主義で合従連衡を繰り返していました。第一次世界大戦では、ロシアは同じスラブ系民族のセルビアを助けるために民主主義国家の英仏と組み、セルビアと対立していたブルガリアと、ロシアと敵対していたオスマントルコは中央同盟国に加わりました。
第一次世界大戦とイギリスの二枚舌
T.
E. Lawrence |
さて、現在のパレスチナ問題は、イギリスが第一次世界大戦で、オスマントルコ領内に住むアラブの人々とユダヤ人シオニスト双方の協力を取り付けるために二枚舌を使ったときに始まったというのが通説です。
映画「アラビアのロレンス」 |
オスマントルコと戦うイギリスは、イスラム教の聖地メッカの太守ハーシム家に対し、大戦後のアラブ人国家樹立を保障します。
イギリス軍から単身派遣されたロレンスが、アラブの民族衣装をまといラクダに乗って、ゲリラ戦を指揮した「アラブの反乱」は、ちょうど50年前の名画「アラビアのロレンス」に描かれています。
一方で、戦時財政に心細いイギリスは、ユダヤ金融資本のロスチャイルドにシオニズムを支持してユダヤ人のパレスチナ帰還を認める約束をしてします。
「アラブの反乱」は成功し、1920年、ハーシム家三男ファイサルが王位についてパレスチナやヨルダンを含む地域にシリア・アラブ王国が建国されました。シオニズムを容認したファイサルは、閣僚にユダヤ人を多数受け入れたそうです。
ところが、ファイサルは、イギリスとの秘密協定でシリア領有を決めていたフランスにダマスカスを追い出され、イギリスの誘いに乗ってイラクの初代国王となります。
パレスチナはヨルダン川の東西に分けられ、東にはハーシム家次男のトランスヨルダン王国が築かれ、ユダヤ人の帰還先から外れることになりました。
|