西部戦線…アナコンダ戦略で水陸の南軍生命線を切断
とどめはシャーマン将軍の焦土作戦「海への進軍」
[目次]
アナコンダ(大蛇)戦略/
港湾封鎖と封鎖破り/
海上封鎖の政治・経済効果/ 1861年9月~62年4月
テネシー二河川遡上作戦(ヘンリー砦・ドネルソン砦の戦い・シャイロの戦い)/
1862年5月~10月
南軍ケンタッキー攻勢(リッチモンドの戦い・ペリービルの戦い・ストーンズ川の戦い)/1862年11月~63年7月
ビックスバーグ方面作戦/ 1863年6~12月
チカモウガ・チャタヌガ方面作戦(タラホーマの戦い・チカモーガの戦い・南軍のチャタヌガ包囲戦・第三次チャタヌガの戦い・ノックスビル方面作戦)/
1864年5月~65年4月
アトランタ~ジョージア・カロライナ焦土作戦(アトランタ方面作戦・南軍ナッシュビル方面作戦・大統領選挙・ジョージア・カロライナ焦土作戦)

Abraham
Lincoln |

Ulysses
Grant |

William
Sherman |
あらためていうまでもありませんが、大統領は軍の最高司令官です。実際に、アメリカ大統領ほど軍人出身者が多い国はないかもしれません。
しかし、その歴代大統領の中でも、リンカーンに勝る戦術家はいなかっただろうといわれています。奴隷解放を成し遂げた人格者という前に、まずは軍事の天才であったことを評価しなければなりません。

アナコンダ戦略の風刺画 |
南北戦争で、リンカーンは、開戦時の陸軍総司令官スコットが提案した「アナコンダ戦略」を採用しました。大蛇が獲物を締め殺すように、大西洋とメキシコ湾岸を海上封鎖し、ミシシッピー川の制水権を奪って南部連合を東西に分断した上で、南部経済の中心アトランタに攻め入る長期戦です。
スコットは、米英戦争(1812年戦争)以来の歴戦の強者でしたが、肥満と持病に悩む74歳で、戦場で指揮をとれないために間もなく引退しますが、代わりに西部戦線でアナコンダ戦略を実行したのが、後に第18代大統領に就任するグラント将軍でした。
グラント将軍は、1864年3月に陸軍総司令官に任命され東部戦線に転戦しますが、その後を引き継いでアトランタを陥落させ、ジョージアとサウスカロライナの経済インフラを壊滅させたのがシャーマン将軍でした。シャーマンは、その後、グラントの大統領就任に伴い陸軍総司令官を引き継ぎ、アメリカ西部のインディアン戦争を推し進めました。
下の最初の図は西部戦線の両軍の大まかな動きを描いたものですが、その次のアナコンダ戦略の図と二つ並べて見ると、南北戦争の全容がお分かりになるでしょう。
北軍は、@メリーランド、ウェストバージニア、ケンタッキー、ミズーリと4つの境界州を北軍の味方に付け、A海上封鎖をして欧州諸国との通商を遮断し、Bミシシッピ―川の制水権を奪ってテキサス、アーカンソー、ルイジアナの3州を分断し、C南部連合領内の鉄道輸送を寸断しながらアトランタに進軍し、D南部経済の中心ジョージア州と開戦の急先鋒だったサウスカロライナ州を焦土化して、戦争の継続が困難な状況に追い込みました。
東部戦線については別に説明しますが、一回り小さいアナコンダ戦略により四方から補給路が絶たれ、戦争継続が困難になり、南軍のカリスマだったリー将軍が降伏。西部戦線の主力部隊は、ノースカロライナで北軍と対峙し様子を見ていましたが、1ヶ月後に降伏…これが、骨太の南北戦争の流れです。
1861~65年
南北戦争西部戦線…概略
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Anaconda
Plan (⇒拡大) |
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港湾封鎖と封鎖破り +++++
しかし、5千kmもの海岸線の海上封鎖は簡単ではありません。北軍の海軍は、南部の封鎖破りの蒸気船が石炭を積み込む施設のある大西洋岸の港湾を優先して攻略することにしました。封鎖破りの交易ルートはバミューダやバハマ経由でしたから、大西洋岸を押さえれば大半は阻止できます。また、フロリダ半島先端のキーズ地方は北軍支配下にあったので、メキシコ湾岸を出港した封鎖破りの船を捕えることができたのです。
南軍は、戦いが白熱するに従い、ノースカロライナのウィルミントン、サウスカロライナのチャールストン、ジョージアのサバンナを除き、港湾の守備をあきらめて内陸の戦闘に兵力を振り向けます。チャールストンの攻防では北軍の苦戦が続きましたが、1863年7月に南軍が湾口の砦を放棄し港湾封鎖が完了しました。サバンナとウィルミントンは、シャーマン部隊に内陸から攻略されるまで持ちこたえました。
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海上封鎖の政治・経済効果 +++++
1861~65年 |
数量 |
南部の綿花生産高 |
680万俵 |
南部の自家消費高
|
40万俵
|
対ヨーロッパ輸出高
|
50万俵
|
対北部移出高
|
90万俵
|
廃棄 |
330万俵 |
戦後に売却
|
180万俵
|
しかし、港湾は使えても、湾外で目を光らせる北軍の艦隊を振り切って、封鎖破りするのは容易ではありません。現に右表のように、南北戦争中に南部で生産された綿花の過半が捨てられ、残りの半分も戦後まで売れずに残った事実からは、海上封鎖が大成功だった事情がうかがえます。一部が北部に移出されていますが、開戦から1年で西部テネシーが北軍の支配下に入ったせいでしょうか?
また、世界の綿紡織工場に原料の綿花を一手に供給していた南部連合は、北部のライバルのイギリスと手を組み短期戦で独立を勝ち取る算段でしたが、1861年11月に南部外交使節を乗せたイギリスの郵便船が、海上封鎖中の北部海軍に拿捕されてしまいます。
国際法上は明らかなイギリスの中立権の侵害で、一時米英間に緊張関係が生じましたが、リンカーンがイギリスに事実的に謝罪し、南部の外交使節を解放しただけで大事に至りませんでした。逆に、南部はイギリスの支持と国家承認を取りつける絶好の機会を失ってしまいます。
実際、米英ともに戦争は避けたかったのです。当時、イギリスは穀物消費の25~30%を輸入でまかなっていました。ところが、1861~62年にかけて身近な農業大国フランスで凶作が続き、アメリカからの穀物輸入に頼らざるを得ない事情でした。アメリカ北部にとっても、イギリスは、穀物の40%超を輸入するお得意様でした。
イギリスは、海上封鎖による南部産綿花の不足を、インドやエジプトから調達してやりくりしました。南北戦争は、北部の思惑通り、外交上は(南部の独立戦争=国際紛争でなく)内乱=アメリカの国内問題として扱われることになったのです。
南部連合の海軍は、艦船不足を補うために、綿花俵を重ねて壁にした簡易装甲艦や魚雷艇・潜水艦などを開発して北軍海軍に対抗しましたが、戦争末期には主要艦船をことごとく失い戦力喪失状態に陥っていました。
左図で、あらためてミシシッピー川の流域の広さをごらんください。
注目していただきたいのは、テネシー州を流れる二つの大河が、アパラチア山脈の谷間をぬって西に下り、そこから急に北上して並んでオハイオ川に注ぎ、さらに約50km下ってまたミシシッピー川に合流することです。
つまり、計4河川が合流するこの地方は、北部諸州と境界州のケンタッキーとミズーリに、南部連合のテネシーとアラバマ北部の水運が集中するアナコンダ戦略の扇のカナメでした。
1861年9月1日にミズーリ南東部の守備を命ぜられたグラントは、ミシシッピー・オハイオ合流点の北岸イリノイ州ケイロに布陣します。
すると、南軍は、3日にケンタッキーの中立を侵し、ケイロから30km南のコロンバスの町を占領しました。モービル‐オハイオ鉄道の北端です。付近の河岸は高さ30mの断崖で、南軍は両岸に140門の大砲を構えて北軍艦船の通行をできなくしました。
+++++
ヘンリー砦・ドネルソン砦の戦い +++++
これに対して、グラントの北軍は、6日にテネシー川がオハイオ川に合流する地点の町パドゥーカを占領。7日には、コロンバス対岸に越境した南軍と対戦しますが、コロンバスから撃退すまでには至りません。
年月日 |
東部戦線の主な戦闘 |
勝敗 |
司令官 |
兵力 |
損失 |
損失率 |
1862年2月6日
西部テネシー(北軍砲艦7隻)
|
ヘンリー砦の戦い
(テネシー二河川遡上作戦)
|
●北軍 |
グラント
|
15,000
|
40
|
0.3% |
✕南軍 |
ティルマン |
3,400 |
79 |
2.3% |
1862年2月11~16日
西部テネシー
|
ドネルソン砦の戦い
(テネシー二河川遡上作戦)
|
●北軍 |
グラント
|
24,531
|
2,691
|
11.0% |
✕南軍 |
フロイド |
16,171 |
13,836 |
85.6% |
1862年4月6~7日
西部テネシー
|
シャイロの戦い
(テネシー二河川遡上作戦)
|
●北軍 |
グラント
|
66,812
|
13,047
|
19.5% |
✕南軍 |
ジョンストン |
44,699 |
10,699 |
23.9% |

1861年9月~1862年4月(⇒拡大) |
しかし、翌1862年2月6日、グラントは海軍の砲艦7隻の支援を得てテネシー川の砲台ヘンリー砦を落とし、翌7日には陸路で、15km東のカンバーランド川の砲台ドネルソン砦を背後から襲い、攻略しました。これで、北軍はテネシーの二大河を制し自由に航行できるようになります。

Battle
of Fort Henry |

戦闘経路
(⇒拡大) |

Battle
of Fort Donelson |

Battle
of Shiloh |
+++++
シャイロの戦い +++++
南軍は、防衛線を大きく後退させ、コロンバスの南軍もボーリンググリーンの南軍側ケンタッキー州政府も、モービル‐オハイオ鉄道とメンフィス‐チャールストン鉄道が交差するミシシッピ州北部のコリンスに撤退。グラントは、南軍を追ってテネシー川を遡上しました。
南軍は、ジョンストンのテネシー軍もナッシュビルを放棄、西部戦線の全部隊がコリンスに集結して北軍に備えます。グラントは、テネシー川西岸のシャイロ付近で、援軍のビュエルのオハイオ軍が合流するのを待ち野営していました。
しかし、そこを南軍に急襲されてしまいます。4月6日朝、戦況は南軍有利でしたが、激戦で1日では攻めきれません。翌日、援軍が到着して、戦線を立て直した北軍に押し戻されてしまいました。

Battle
of Shiloh 6日朝
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Battle
of Shiloh 6日夕
(⇒拡大) |

Battle
of Shiloh 7日
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勝っても多数の犠牲者を出してしまったグラントは非難され、実質的に部隊の指揮を外されます。おかげで、北軍の進撃はモタモタしましたが、5月末に南軍はコリンスを捨ててトゥペロに退き、グラントもテネシー軍司令官に復帰しました。
北軍の海軍は、メンフィスとニューオリンズの間を除き、ミシシッピ川の制水権を固めます。
南軍ミシシッピ軍を率いるブラッグは、8月に自軍を鉄道でチャタヌガに輸送し、スミスの東部テネシー軍と合流してケンタッキーに攻め上る計画を立てます。ケンタッキーでは南部連合支持者に歓迎され、現地徴兵で南軍部隊も増強されるものと期待していました。
+++++
リッチモンドの戦い +++++
しかし、戦いに疲れたブラッグのミシシッピ軍がつかの間の休息を取っている間に、スミスの東部テネシー軍は約束を破り、功を競って単独でケンタッキーに侵攻していました。リッチモンドの戦いで圧倒的に勝利し、8月30日には拠点都市レキシントンに入りました。やむを得ず、ブラッグも後を追って北上します。
年月日 |
東部戦線の主な戦闘 |
勝敗 |
司令官 |
兵力 |
損失 |
損失率 |
1862年8月29~30日
中部ケンタッキー
|
リッチモンドの戦い
(南軍ハートランド攻勢)
|
✕北軍 |
ネルソン
|
6,500
|
5,353
|
82.4% |
●南軍 |
スミス |
6,850 |
451 |
6.6% |
1862年10月8日
中部ケンタッキー
|
ペリービルの戦い
(南軍ハートランド攻勢)
|
▲北軍 |
ビュエル
|
22,000
|
4,276
|
19.4% |
▲南軍 |
ブラッグ |
16,000 |
3,401 |
21.3% |
南軍の動きに気付き、北軍のビュエルも急いで北上します。南軍がルイビルやシンシナティに入る前に、先回りして食い止めなければなりません。南軍スミスは9月半ばに8千名の兵力で北ケンタッキーに進み、オハイオ川対岸の全米6位の大都市シンシナティを脅かしましたが、市は2万5千名の正規兵と6万名の民兵で防衛線を張って対抗しました。

Confederate
Heartland Offensive
(⇒拡大) |
その頃、スミスを追って西回りで北上した南北両軍は途中でニアミスしていました。しかし、南軍のブラッグは、敢えて交戦を避けます。バーズタウンに進んで中部ケンタッキーの支配を固め、レキシントンのスミスと合流して兵力を強化してから戦おうとしたのです。
おかげで、ビュエルの北軍はルイビルに無傷で入って新兵を補充することもできました。対照的に、南軍の新兵徴募は順調に進みません。
+++++
ペリービルの戦い +++++
続いて、北軍ビュエルは、南軍の二つの部隊が合流するのを阻止する作戦に出ます。10月4日に、南軍スミスは、ケンタッキーの州都フランクフォートで、南部連合の傀儡(かいらい)の州知事の就任式を行っていました。南軍ブラッグも自軍をバーズタウンに残し、単身で駆けつけていました。

Battle
of Perryville |
ビュエルは、まずフランクフォート方面に2万名の北軍部隊を動員してスミスの南軍を引きつけます。その一方で、5万5千名の兵を動かして、ブラッグが留守にしているバーズタウンの南軍を脅かし50km西のペリービルに後退させていました。
しかし、ブラッグは、フランクフォート方面の北軍が本隊と思い込み、ペリービルの北軍は小部隊と誤解していました。スミスの東部テネシー軍を連れてフランクフォートから退き、中間点で自軍を待ちます。合流予定地は、ペリービルの15km先のハロッズバーグです。自軍には、サッサと北軍を撃破してから来いと、お気楽な指令を出していました。
10月8日、ペリービルの戦いは、朝の小衝突がきっかけで始まりました。ブラッグのミシシッピ軍は、指令通りに攻撃を仕掛けるつもりでしたが、形勢を見て、独断で防御態勢に入りました。なかなか戦闘が起きません。いらいらしたブラッグがハロッズバーグから駆けつけると、南軍の防御態勢はスキだらけです。ブラッグは、そのまま自軍の指揮をとります。スミス軍との合流は、またもお預けです。
北軍もまた、この日の戦闘は想定していませんでした。訓練不足の新兵が戦闘準備でもたついていたので、予定を1日延ばしていたのです。ビュエルはたまたまケガをしていて、ペリービルの1.5km西で休んでいました。
戦闘は午後2時頃から本格化して多数の犠牲者を出しましたが、激戦はわずか4時間の短期戦で、南北両軍ともに予備兵力を残して終わった部分対決でした。犠牲者数は北軍が上回り戦術的には南軍の勝利といわれていますが、南北の兵力差は歴然で、南軍はノックスビルに逃げ帰り、その後、渓谷伝いで中部テネシーのマーフリーズボロに帰還しました。
+++++
ストーンズ川の戦い +++++
ペリービルの戦いと同じ頃、北部ミシシッピでは、南軍ミシシッピ軍の留守部隊が、シャイロの戦いで北軍のものとなっていた交通の要衝コリンスの奪還を試みていました。第二次コリンスの戦いです。ローズクランズのミシシッピ軍が撃退しましたが、積極的な追撃を怠り、後見役のグラントを激怒させました。
年月日 |
東部戦線の主な戦闘 |
勝敗 |
司令官 |
兵力 |
損失 |
損失率 |
1862年10月3~4日
北部ミシシッピ
|
第二次コリンスの戦い
(南軍イウカ・コリンス方面作戦)
|
●北軍 |
ローズクランズ
|
23,000
|
2,520
|
11.0% |
✕南軍 |
バン・ドーン |
22,000 |
4,233 |
19.2% |
1862年12月31日~63年1月2日
中部テネシー
|
ストーンズ川の戦い
(ストーンズ川方面作戦)
|
●北軍 |
ローズクランズ
|
41,400
|
12,906
|
31.1% |
✕南軍 |
ブラッグ |
35,000 |
11,739 |
33.5% |
しかし、グラントを除き北軍の指揮官はことごとく戦いぶりが消極的で、リンカーンもイライラしていました。リンカーンは、南軍をサッサと中部テネシーから追い出すよう警告付きで、オハイオ軍の司令官をビュエルからローズクランズに更迭しました。にもかかわらず、ローズクランズはナッシュビルで準備に時間をかけ、マーフリーズボロに進軍した時は1862年のクリスマス明けになっていました。

Battle
of Stones River |
ブラッグの南軍は既にスミスの1万名を東部テネシーに帰し、一部の部隊をビックスバーグの援軍に回していたので、兵力は北軍に劣る3万5千名。石灰岩が露頭し荷馬車や大砲の移動が容易でないストーン川の濃密な杉林に防御陣を設けました。しかも、北軍は、南軍騎兵隊の効果的な妨害により全兵力のほぼ半分しか参戦させられませんでした。
戦いは、大晦日の早朝に、ブラッグが先手を打ち、北軍を強襲して始まります。しかし、北軍は善戦し、夕刻には全軍がストーンズ川に追い詰められながらも、踏みとどまりました。年明けの元日はお休みで、1月2日の戦いでは北軍の一部が渡河し、対岸からの味方の砲撃に助けられて前線を突破しました。

12月31日午後4時
(⇒拡大) |

1月2日午後4時
(⇒拡大) |

1月2日午後4時30分
(⇒拡大) |
南軍に決定的に不利な場面ではありませんでしたが、ブラッグは北軍に援軍が来るのを知り、翌月3日にタラホーマに向けて撤退します。これで、中部テネシーは南東の片隅を残して北軍支配下に入りました。ストーンズ川の戦いは、南北戦争で両軍ともに、最も死傷率の高い凄惨な戦いになりました。
アナコンダ戦略は、1862年4月のシャイロの戦いの後は進んでいませんでした。北軍は多数の河川用装甲艦を建造し、ミシシッピー川の制水権を押さえてましたが、南部の鉄道が連結するミシシッピ州ビックスバーグの渡河点を守る南軍の要塞を奪わないと、南部連合を東西に分断することができません。
しかし、当時のミシシッピー川は、ビックスバーグの目の前で馬蹄形に屈曲し、断崖上からミシシッピー川を通過する船舶を砲撃するには絶好の立地でした。
中部テネシーの南軍が一掃され、グラントは1862年11月からビックスバーグ攻略の課題に取り組みます。年内は陸路で正面からビックスバーグに進撃を試みましたが、南軍の頑強な抵抗にあって難しいことが分かりました。
それから3ヶ月、冬の間、グラントはあちこちに運河を掘ってビックスバーグを避けて通るバイパスを作ったり、ビックスバーグ要塞を攻略できるポイントに兵員を上陸させる方法を試してみますが、どれもこれも全て失敗してしまいます。
年月日 |
東部戦線の主な戦闘 |
勝敗 |
司令官 |
兵力 |
損失 |
損失率 |
1863年5月16日
ミシシッピ中部
|
チャンピオンヒルの戦い
(ビックスバーグ方面作戦)
|
●北軍 |
グラント
|
32,000
|
2,457
|
7.7% |
✕南軍 |
ペンバートン |
22,000 |
3,840 |
17.5% |
1863年5月18日~7月4日
ミシシッピ中部
|
ビックスバーグ包囲戦
(ビックスバーグ方面作戦)
|
●北軍 |
グラント
|
77,000
|
4,835
|
6.3% |
✕南軍 |
ペンバートン |
32,697 |
32,697 |
100% |
1863年5月21日~7月9日
ルイジアナ南部
|
ポートハドソン包囲戦
(ポートハドソン攻略作戦)
|
●北軍 |
バンクス
|
35,000
|
10,000
|
28.6% |
✕南軍 |
ガードナー |
7,500 |
7,500 |
100% |
最後に選んだのが、対岸のアーカンソーを下り、下流で渡河してビックスバーグの背後に回り込む作戦です。

北軍船団の要塞敵前突破(石版画) |
ミシシッピ川の両岸は一面が湿地帯で、歩兵が足を取られずに進軍することはできません。あらかじめ110kmにわたる湿地を、工兵隊が3週間かけて埋め立て丸太道を敷設しました。兵員を渡河させる船は、上流から敵前突破して下流に回すしかありません。奇抜で危険な作戦です。

ビックスバーグ方面作戦
(⇒拡大) |
月明かりなく、しかし晴れ上がった4月16日の夜、海軍の7隻の砲艦と3隻の輸送船が要塞前に差しかかりました。エンジン音を落とし明りも消していましたが、南軍の歩哨が目ざとく見つけ、砲台から一斉砲火を浴びせかけられます。

Battle
of Vicksburg |

南軍の塹壕
(⇒拡大) |
しかし、幸い、至近距離に砲弾の死角がありました。船団は、要塞直下のミシシッピ川東岸に思い切り寄って下り、1隻を除いて無傷で通過することができました。
次いで、29日にはグラント軍4万4千名が、ミシシッピー川西岸から渡河を開始します。まず州都ジャクソンに攻め上り南軍の援軍を敗走させ、5月16日にチャンピオンヒルでビックスバーグ守備隊を破り、18日から6週間にわたって町ごと要塞を包囲します。その間にもグラント軍は増強され、7月には7万5千名になっていました。食料と弾薬の補給路を断たれ、ビックスバーグの南軍は4日に降伏し町と要塞を開放しました。以後81年にわたり、ビックスバーグは7月4日のアメリカ独立記念日を祝わなかったと伝えられています。
これで、ミシシッピ川に残る南軍拠点は、はるか下流のルイジアナ州バトンルージュ対岸ポートハドソン要塞のみ。こちらにも北軍の別動隊が派遣され、南軍守備隊は5月21日から続く包囲戦に耐えていましたが、ビックスバーグ陥落の報に接して7月9日に降伏します。
ついに、ミシシッピ川で東西の物流は遮断され、南部連合がメキシコ‐テキサス経由で海外と交易する手段がなくなりました。アナコンダ戦略の穴が、ほぼふさがったのです。
アナコンダ戦略の第一フェーズが完了し、西部戦線は、北軍が南部経済の中心部に攻め入る第二フェーズに入ります。ビックスバーグの陥落前日の7月3日には、東部戦線でも、リー将軍の北部侵攻の野望を打ち砕くゲティスバーグの大勝利がありました。
+++++
タラホーマの戦い +++++
東西の大勝利のために影が薄くなってしまいましたが、同じ7月3日にローズクランズ率いる北軍が、南軍を中部テネシーから追い出していました(タラホーマの戦い)。次の目標は、バージニアと中部・西部テネシーやアトランタ方面を結ぶ鉄道の要衝で、鉄とコークスを生産する工業都市チャタヌガです。相次ぐ大勝利に、連邦政府はローズクランズにも早い進軍を期待していました。
年月日 |
東部戦線の主な戦闘 |
勝敗 |
司令官 |
兵力 |
損失 |
損失率 |
1863年6月24~7月3日
テネシー中部
|
タラホーマの戦い
(タラホーマ方面作戦)
|
●北軍 |
ローズクランズ
|
60,000
|
569
|
0.9% |
✕南軍 |
ブラッグ |
45,000 |
1,634~ |
3.6%~ |
1863年9月19~20日
ジョージア北部
|
チカモーガの戦い
(チカモーガ方面作戦)
|
✕北軍 |
ローズクランズ
|
60,000
|
16,170
|
27.0% |
●南軍 |
ブラッグ |
65,000 |
18,454 |
28.4% |
1863年11月25日
東部テネシー南部
|
ミショナリーリッジの戦い
(チャタヌガ方面作戦)
|
●北軍 |
グラント
|
56,359
|
5,824
|
10.3% |
✕南軍 |
ブラッグ |
44,010 |
6,667 |
15.1% |

1862年5~10月(⇒拡大) |
+++++
チカモーガの戦い +++++
しかし、チャタヌガはテネシー渓谷が反L字型に屈曲するアパラチア山脈の山間にあり、山がちな対岸から攻め入ることは困難です。南にも、東からルックアウト山、チャタヌガ川、ミショナリ―リッジ、チカモーガ川など峰と谷間が交互に並ぶ守る側に有利な地形です。南軍が背後に回れば、補給路が絶たれてしまうからです。
背後に不安を抱え、急かされるままに進軍した北軍は、南に迂回して渡河し3部隊に分かれました。1隊はルックアウト山地の北からチャタヌガを目指し、残りの2隊は峠を越えてチャタヌガ川の谷間に向かい、大軍が狭い谷間に30~40kmの間隔で散らばりました。

チカモーガ方面作戦…8月15日~9月8日(⇒拡大)
|

チャタヌガ方面作戦…北軍の新補給路(⇒拡大)
|
一方、南軍はさっさとチャタヌガを去り、アトランタ方面に退却するそぶりで、チカモーガ川の周辺に集結していました。バージニアとミシシッピ軍からも援軍を得て、総兵力も北軍を上回る規模になる予定です。
そこで、南軍のブラッグは北軍3隊の個別撃破を企みました。9月10日に絶好の機会を得て、中央の部隊を一気に殲滅する指令を出しますが、部下の怠慢で安々と逃してしまいます。しかも、その後も南軍の動きは鈍く、18日に一斉攻撃を仕掛けたときには、北軍も、南軍兵力の大きさに気づき、全軍が集結してチカモーガ川の西に布陣していました。
こうして逃げ場のない谷間で大軍同士がぶつかった結果、チカモーガの戦いは、南北戦争でゲティスバーグの戦いに次ぐ多数の犠牲者を出す悲惨な戦いになりました。しかも、北軍は3日目の20日に陣形を乱し、後に「チカモーガの岩」と呼ばれるトーマスの部隊の守りで全滅は免れたものの、チャタヌガ方面に敗走します。
+++++
南軍のチャタヌガ包囲戦 +++++
南軍も損害が大きくその日は追撃できませんでしたが、翌21日にルックアウト山とミショナリ―リッジの高地に陣を張り、北軍をチャタヌガ市内に封じ込めてしまいました。両高地からは北軍の動きが一望で、ルックアウト山の砲台がテネシー川の船の航行を妨げています。
ところが、北軍がチャタヌガにバリケードを築き、南軍も、弾薬不足で簡単に攻め切ることができません。食料が尽き、北軍が自発的に降伏するのを待つことにしました。一方、連邦政府は、バージニアとミシシッピ軍から計3万5千名を割いて派兵し、グラントに包囲された北軍の救出を託しました。
膠着状態の下で北軍の唯一の補給路はテネシー川の北を大きく迂回するルートでしたが、9月には川が雨で氾濫したり、10月1日には南軍騎兵隊が輸送隊を襲い幌馬車5百台が焼かれラバ千頭が殺されたり、なかなか十分な補給ができません。チャタヌガの北軍は、次第に飢えに悩まされるようになっていました。
26日に赴任したグラントは、ただちに新補給路の建設計画を承認しました。翌27日に南軍ルックアウト山砲台の射程外の渡河地点を奪い、船橋を架橋します。下流から船で運んだ補給物資を幌馬車に積み替え、船橋を渡ってチャタヌガの対岸から物資を補給するルートができました。チャタヌガの北軍がクラッカーも食べられずに飢えていたことから、新補給路は「クラッカー・ライン」と呼ばれるようになりました。
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第三次チャタヌガの戦い +++++
11月中旬にシャーマンの2万名の援軍が着いて、グラントは攻勢に転じます。しかし、新補給路ができたことで北軍の最大の弱点は克服されたものの、南軍が立てこもるミショナリ―リッジの稜線には、40門の大砲が構えられ5kmを超える塹壕が掘られていました。
そして、11月25日…ミショナリ―リッジの戦いで、グラントは南軍の左右両翼から側面攻撃をかけますがうまくいきません。ところが、グラントの制止も聞かず「チカモーガの岩」部隊が山腹を正面から攻め上って、南軍を潰走させてしまいます。

Battle
of Chicamauga |

Battle
of Lookout Mountain |

Battle
of Missionary Ridge |
この勝利で北軍は「ディープサウスへの入場門」といわれるチャタヌガを手に入れ、南部経済の心臓部ジョージア州アトランタ方面への補給路を確保しました。南部連合の人々は、チカモーガの戦いでつないだ勝利の期待を、チャタヌガの戦いで打ち砕かれてしまいました。
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ノックスビル方面作戦 +++++
東部テネシーのノックスビル方面作戦は、1863年秋にチカモーガ‐チャタヌガ方面作戦と並行して進められていました。東部テネシーは、もともと連邦政府支持の地域です。開戦時には、南部連合加盟を決めたテネシー州から離脱して、ウェストバージニアのように新州として連邦(北部)に残ろうとしたところを、南部連合に占領されてしまった経緯があります。
歩兵1万5千名と騎兵8千5百名…9月2日にノックスビル入りした北軍は、温かく迎えられました。東部テネシーの南軍は主力がチカモーガ‐チャタヌガ方面に割かれ、ノックスビル方面は手薄になっていましたから、戦いらしい戦いにも遭遇しませんでした。
ところが、チカモーガの戦いに勝って北軍をチャタヌガに包囲していた南軍は、逆に守勢に回り、結果的にアブハチ取らずの戦法を取ります。南軍バージニアの援軍をノックスビル方面に回し、北軍がチャタヌガに援軍を出せないようノックスビルに釘付けする作戦でした。
しかし、ノックスビルに釘付けされたのは南軍の方で、貴重な1万5千名の兵員はバージニアに帰還することもかなわず、厳しい冬の野営生活を強いられただけでした。この記事では触れませんが、南北両軍ともに戦争指導者の間で政治的な対立がもとで、奇妙な戦略が採用されることがあったようです。
南北戦争には、なるべく1~4月はお休みという暗黙のルールがあったようです。冬から春にかけて道がぬかるみ行軍に差支えたのが理由でしょうが、長い戦争で兵士の骨休みも必要だったのでしょうか。徴兵の区切りや新兵の訓練期間にあてたのかもしれません。
1864年は大統領選挙の年でした。11月に2期目の選挙を控えるリンカーンは、東西の戦線で南北戦争の勝利を決定づけため、信頼するグラントを陸軍総司令官に任命しました。東部戦線で、南軍のリー将軍と直接対決させる人事です。後任の西部戦線司令官には、グラントが信頼するシャーマンが昇格しました。
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アトランタ方面作戦 +++++
兵力比較
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北軍
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南軍 |
作戦初期
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98,500
|
50,000
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累計
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112,000
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65,000
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損失累計
(戦死)
(負傷)
(捕虜・不明)
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31,687
(4,423)
(22,822)
(4,442)
|
34,979
(3,044)
(18,952)
(12,983)
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残存兵力
|
81,000
|
30,000
|
シャーマンの北軍は、チャタヌガからアトランタに向かって鉄道沿いに進軍しました。これまでの大会戦中心の西部戦線の作戦と違い、5月1日~9月5日まで約4ヶ月の間に、大小70~80もの戦闘が起きています。
この頃になると、右表のように、両軍の兵力(兵士数)に明らかな差が現れてきます。作戦初期の兵力に差があるので、両軍の損失がほぼ互角でも、兵力差は拡大する一方でした。
余談ですが、南軍の損失に捕虜・不明が多いのは、私の想像ですが、士気が下がって脱走したり進んで捕虜になったりする兵がいたのかもしれません(もっとも、南軍では12%、北軍では15.5%の捕虜が収容所で死んでいます)。
南軍は、無理な戦いで兵力を減らすわけにいきません。南軍司令官のジョンストンは、塹壕を築き守備優先で戦いました。北軍のシャーマンも兵力は減らしたくないので、その都度、塹壕の側面に回り込んで戦います。ジョンストンは、情勢が不利になれば南に下り、新たな防御線で塹壕を築いて戦います。

南軍装甲艦も作っていたアトランタ製鋼所 |

アトランタ製鋼所の焼け跡 |
この繰り返しで南軍の防御線は下がりに下がり、7月下旬についにアトランタ(現ダウンタウン)から5kmの地点まで後退していました。ここで、南部連合ののジェファーソン・デービス大統領は、南軍の司令官を更迭。ところが、新任のフードは無謀な作戦でピーチツリーの戦いとアトランタの戦いに連敗し、南軍は大きな損失をこうむりました。
しかし、アトランタは全市がバリケードで固く守られていて、正面攻撃しては多数の兵力の損失を免れません。北軍は、その後1ヶ月余りアトランタを包囲した上で、8月31日に北軍の兵力を集中して南のメーコンに通じる鉄道を襲いました。
南軍は、これに反撃できる兵力がないことを知り、9月1日に武器弾薬と軍事施設を焼いてアトランタを撤退します。この火が延焼し映画「風と共に去りぬ」で有名なアトランタの大火が起きました。
年月日 |
東部戦線の主な戦闘 |
勝敗 |
司令官 |
兵力 |
損失 |
損失率 |
1864年7月20日
ジョージア・アトランタ近郊
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ピーチツリークリークの戦い
(アトランタ方面作戦)
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●北軍 |
トーマス
|
21,655
|
1,710
|
7.9% |
✕南軍 |
フード |
20,250 |
4,796 |
23.7% |
1864年7月22日
ジョージア
|
アトランタの戦い
(アトランタ方面作戦)
|
●北軍 |
シャーマン
|
34,863
|
3,641
|
10.4% |
✕南軍 |
フード |
40,438 |
8,499 |
21.0% |

1864年5月~1865年4月(⇒拡大) |
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南軍ナッシュビル方面作戦 +++++
年月日 |
東部戦線の主な戦闘 |
勝敗 |
司令官 |
兵力 |
損失 |
損失率 |
1864年9月29日 南軍の北軍補給路襲撃作戦
1864年10月13日~11月10日 シャーマン部隊追撃
1864年11月15日~12月21日 シャーマンの「海への進軍」
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1864年11月30日
中部テネシー
|
フランクリンの戦い
(南軍ナッシュビル方面作戦)
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●北軍 |
スコフィールド
|
27,000
|
2,326
|
8.6% |
✕南軍 |
フード |
27,000 |
6,252 |
23.1% |
1864年12月15~16日
中部テネシー
|
ナッシュビルの戦い
(南軍ナッシュビル方面作戦)
|
●北軍 |
トーマス
|
55,000
|
3,061
|
5.6% |
✕南軍 |
フード |
30,000 |
6,000 |
20.0% |

Battle
of Franklin |
アトランタから脱出したフードの南軍は一転して、今や北軍の補給路となったチャタヌガ方面の鉄道を襲撃し、シャーマンのさらなる南部侵攻を妨害しようと試みます。これには一定の効果があり、シャーマンは部隊の一部を11月初めまで一時的に背後を攪乱する南軍対策に振り向けなければなりませんでした。
しかし、兵力に余裕のある北軍は、フードの南軍に別部隊で対応します。フードはテネシー川で北軍補給基地を攻略したものの、シャーマンの北軍をジョージアから引き戻す目的は果たせず、北に転進して北軍の拠点ナッシュビルに向かいました。
しかし、11月末のフランクリンの戦いと12月半ばのナッシュビルの戦いの一方的な敗戦で、西部戦線の南軍は崩壊して潰走しました。二度と戦うことはありませんでした。
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大統領選挙 +++++

1864年大統領選挙 |
1864年11月8日に、リンカーン大統領が再選を果たしました。既に連邦を脱退して南部連合に加盟した11州のうちテネシーとルイジアナは、投票を許されています。
共和党リンカーンの圧倒的な勝利に見えますが、それはアメリカの大統領選挙が州単位で勝ち負けを決めるからで、個人投票のレベルでは55%:45%と大差をつけたわけではありません。相手は、南北戦争初期に、短期間、北軍の総司令官を勤めた、民主党のマクラレン候補で、公約に南部連合との和平を掲げていました。
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ジョージア・カロライナ焦土作戦 +++++

アトランタで鉄道を破壊する北軍兵 |
アトランタには、南軍の装甲艦を製造した鉄工所、大砲や銃器工場、軍服や剣などの軍需物資工場、貨車やレールの製造工場はじめ戦争遂行に必要な施設がひしめいていました。
シャーマンは、アトランタ市民を市外に退避させた上で、焼け残った施設があればことごとく破壊しました(一部の機械設備などは、北軍がアトランタに迫ってきた7月にオーガスタやサウスカロライナ州コロンビアに持ち出されています)。
そして11月15日に、「海への進軍」として恐れられるシャーマンのジョージア州焦土作戦が始まりました。この時はまだ港湾封鎖されていなかったサバンナに向かい、6万5千の北軍が幅50~100kmに拡がって沿道の家屋敷から工場、機械、農家、家畜、菜園、穀物、綿花、砂糖キビ、鉄道、橋に至るまで破壊し尽くしました。中でも熱心だったのは、1年前まで南軍に占領されていた東部テネシー出身の兵だったとか…。
焦土作戦とは、本来はアトランタの南軍のように自らの設備を焼いて退去することをいうそうですが、ここでいう焦土作戦は英語でトータルウォー…第一次、第二次世界大戦がその典型で、相手の国土を徹底的に破壊する作戦です。何よりも相手国民の継戦意欲を打ち砕くのが目的で、近代型焦土作戦は、この時始まったとされています。
サバンナは12月22日に占領され、封鎖破りの蒸気船が使える港も、後はノースカロライナ州ウィルミントンを残すだけでした。シャーマンは、クリスマス休みもそこそこに、1月5日にサウスカロライナの州都コロンビアに向けて焦土作戦を再開しました。
サウスカロライナは真っ先に連邦を脱退し、北軍のサムター要塞を攻撃して南北戦争の口火を切った南部連合の主犯格の州ですから、制裁目的でジョージアよりひどく破壊されました。
年月日 |
東部戦線の主な戦闘 |
勝敗 |
司令官 |
兵力 |
損失 |
損失率 |
1865年3月19~21日
ノースカロライナ・ゴールズボロ近郊
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ベントンビルの戦い
(カロライナ焦土作戦)
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●北軍 |
シャーマン
|
60,000
|
1,527
|
2.5% |
✕南軍 |
ジョンストン |
21,900 |
2,606 |
11.9% |
チャールストンは、シャーマンの進軍コースを外れていましたが、2月18日に降伏。ノースカロライナ州ウィルミントンも、22日にシャーマンの別動隊が占領しました。
南軍は、ジョンストンが西部戦線の生き残りを集め、ウィルミントン守備隊も加わり、シャーマンに立ち向かいます。3月19~21日にベントンビルで戦いましたが、歯が立ちません。
シャーマンは、ゴールズボロで一休みしたら、バージニアで東部戦線に加勢する予定でしたが、それより早く4月9日に南軍総司令官のリーが降伏しました。
ジョンストンは、シャーマンに停戦を呼びかけ、26日にノースカロライナ州ダーラム付近で降伏文書に調印します。降伏は、南北カロライナとジョージア、フロリダの南軍の生き残り89,270名が対象で、南北戦争はこの日に実質的に終戦しました。
5月9日には、暗殺されたリンカーンから大統領を引き継いだジョンソンが、事実上の戦闘終息声明を発表。翌10日に、南部連合のジェファーソン・デイビス大統領逮捕。6月23日に、南軍に加勢して戦ったオクラホマ(インディアン準州)のチェロキー族が降伏して、陸上戦闘は終了。11月6日に、軍艦シェナンドーアが降伏して全戦闘が終わりました。ジョンソン大統領が戦争終結宣言をしたのは、翌1866年の8月20日でした。
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