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2015年8月15日 (第110号)

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【米・キューバ国交回復】 1898年に米西戦争で半植民地化

  マフィア傀儡政権で首都ハバナはカジノ・麻薬天国

 7月20日、アメリカとキューバは54年ぶりに国交を回復、お互いの大使館を再開しました。国交断絶は1961年1月3日…当時の私は小学6年生の3学期で卒業間近だったはずですが、キューバで革命が起きたのはその前年の1960年。日本では、安倍首相の祖父の岸首相が安保条約改定を果して間もなく刺されたり、社会党の浅沼書記長が刺殺されたり、政治テロが相次いで物騒な年でした。ちなみに、岸首相は「安保改定がきちんと評価されるには50年はかかる」という言葉を残しています。

 国交断絶を決めたのは、2週間後に任期切れを控えた共和党のアイゼンハワー大統領でした。民主党のケネディ大統領は1月20日に就任。その3ヶ月後、就任間もない大統領は躊躇しつつ、前政権とCIA(中央情報局)が秘かに準備していた亡命キューバ人の反攻を支援する作戦(ピッグス湾侵攻作戦)を承認します。結果は大失敗。

 そうでなくてもアメリカには、さらにさかのぼること63年前に、独立戦争に横入りしてキューバ人の独立の夢をむしり取り実質的に植民地化した前科があり、米・キューバ関係はもつれにもつれていました。隣国と仲良くお付合いするのは、どこでもたいへんです。


キューバの独立運動


 キューバはスペインに征服され、もともと住んでいたインディオは、虐殺や過酷な強制労働と疫病で、早くも16世紀にはほぼ絶滅してしまったそうです。

 時代は下って18世紀、キューバの東隣イスパニョール島の西部はフランス領で、砂糖のプランテーション農業で栄えていました。しかし、フランス革命に呼応し1791年に黒人が蜂起、1804年に近代史上で初の黒人共和国ハイチが誕生します。おかげで、ハイチから奴隷制プランテーション農業が移植され、1840年代にキューバは世界最大の砂糖生産地となりました。さらに、それまでスペイン政府の専売だった葉巻の販売が自由化され、たばこ生産も盛んになります。

 しかし、19世紀初頭の中南米では各国の独立が相次ぎました。キューバは亡命する旧支配層の受け皿と化し、スペインも残りわずかな植民地を手放すまいと駐留軍を強化します。こうして入植農民の中にも独立気運が芽生え、キューバのアメリカ編入を目指す運動も起きてきました。

中央アメリカの植民地と国家の変遷 (⇒南アメリカの植民地と国家の変遷)

 国際競争の激化とアメリカの南北戦争(1861∼65年)後の不況で、砂糖産業もタバコ産業もどん底に沈む中、スペインは1867年にキューバで大増税を実施します。それに対して、翌年に独立と奴隷解放を掲げ第一次キューバ独立戦争(1868∼78年)が起きました。反乱はすぐに不況の影響が厳しい東部・中部に広がりましたが、革命軍の内部では富農・中農・黒人層の利害が対立します。西部先進地域には攻め入ることができず、スペインが諸改革を約束して10年で終戦しました。反乱軍には20万人、スペイン軍には8万人の戦死者が出たと伝えられています。

 反乱軍の残党はアメリカに亡命して再起を図っていましたが、1895年に第二次キューバ独立戦争を起こします。しかし、その間にキューバにはアメリカ資本が進出し、砂糖産業を牛耳るようになっていました。アメリカが自国の利権を守るためには、スペイン領にしろ他国領にしろ植民地体制がゆらぐようでは、かえって迷惑だったのです。


アメリカの帝国主義


 そこで、アメリカはキューバの独立を助けるふりをして、米西戦争でスペインからキューバを奪い取りました。アメリカの過去の侵略戦争の歴史については馴染みのない人も多いと思われますので、米西戦争の説明を始める前に、簡単にまとめてご説明しましょう。

Manifest Destiny

西部に書物と電信線をもたらす女神

 下の表をごらんください。アメリカは、独立戦争でイギリスからアパラチア山脈~ミシシッピー川の領土を手に入れ、1803年にはフランスからミシシッピー川~ロッキー山脈の土地を購入。次いで、米英戦争で英領カナダに触手を伸ばしますが、もろくも失敗。イギリスとは北緯49度線で手を打つ一方で、メキシコと戦い大領土を獲得。本土では現国境をほぼ画定しました。

 しかし、以上は机上の空論で、西部開拓の過程では全米のインディアンから土地を奪う別の戦争が必要でした。これを正当化したのがマニフェスト・デスティニー(明白なる天命)という標語…アメリカ人は神の思し召しで、未開の西部に文明をもたらす使命を負っているという都合のいい思想でした。

 ナチスのアーリア人至上主義やソ連の覇権主義、日本の大東亜共栄圏構想や中国古来の中華思想にも通じる帝国主義的な世界観です。モンロー宣言の孤立主義と矛盾するようですが、この有名な宣言も「アメリカはアジア・アフリカの紛争に介入しないが、代わりにヨーロッパ諸国も中南米に手を出すな」と脅しに重きを置いた縄張り宣言とも受取れます。19世紀前半はスペイン・ポルトガルの軍事力が衰えていたので、邪魔が入らなければ、アメリカの勢力圏は中南米に自動的に拡がると考えていたのでしょう。

西暦

アメリカの主な戦争や出来事

大統領

敵(仮想敵)

スローガンや背景

1755~63

フレンチ・インディアン戦争

植民地時代

 フランス・インディアン

英仏の七年戦争(欧州)

1775~83

独立戦争(アメリカ革命)

大陸会議

 イギリス・インディアン

代表なくして課税なし

1812~15

米英戦争(テカムセ戦争)

マディソン

 イギリス・インディアン

Remember the Raisin!

1823

中南米諸国が続々独立

モンロー

(スペイン)

モンロー宣言

1835~36

テキサス独立戦争…義勇軍参加

ジャクソン

 メキシコ

Remember the Alamo

1846~48

米墨戦争

ポーク

 メキシコ

マニフェスト・デスティニー

1861~65

南北戦争(アメリカ内戦)

リンカーン

 南部連合

奴隷解放

1890

インディアン戦争の実質的終結

ハリソン

(インディアン)

フロンティア消滅宣言

1898

米西戦争

マッキンリー

 スペイン・(フィリピン/キューバ)

Remember the Maine

1917~18

第一次世界大戦

ウィルソン

 ドイツ

Remember RMS Lusitania

1941~45

太平洋戦争(第二次世界大戦)

ルーズベルト

 日本

Remember Pearl Harbor

1950~53

朝鮮戦争

トルーマン

 北朝鮮・中国・(ソ連)

冷戦

1960~75

ベトナム戦争

ケネディ

 ベトコン・北ベトナム・(ソ連)

冷戦

1990~91

湾岸戦争

ブッシュ(父)

 イラク

イラクのクウェート侵攻

2001~

テロとの戦い(アフガン戦争)

ブッシュ(子)

 アルカイダ・タリバン

Remember 9/11


戦意高揚語「〇〇を忘れるな」


 しかし、仮にモンロー宣言は建前だけだとしても、世論が戦争に消極的な時に人々の戦意を高揚するにはどうしたらいいでしょう。そんなときに、国民の復讐心をあおる決まり文句がリメンバー〇〇」です

 発祥は、米英戦争のフレンチタウンの戦いのレーズン川を忘れるな!。約千人の新米部隊がデトロイト南方のレーズン川のほとりでほぼ全滅し、ケガをして自力で歩けない捕虜はインディアンに虐殺されました。

 次はテキサス独立戦争で、アラモ伝道所(砦)を忘れるな。西部の英雄デビー・クロケットら義勇兵約200名が、サンアントニオの伝道所に立てこもり、メキシコの大軍を相手に戦ってほぼ全員が戦死しました。

 1890年のフロンティア消滅宣言で300年のインディアン戦争も終焉し、1898年の米西戦争とハワイ併合でアメリカの本格的な帝国主義時代が始まります。その米西戦争に使われたのがメイン号を忘れるな」。

 先に続きをご紹介すると、4代目の敵はドイツでルシタニア号を忘れるな」。第一次大戦中の1915年に、ドイツの潜水艦U20が、イギリスの豪華客船ルシタニア号を無警告で撃沈した事件で、犠牲者にアメリカ人123人が含まれていました。もっとも、アメリカの参戦はそれから2年後のことです。

 日本が敵の「真珠湾を忘れるな」は5代目。6代目の「9月11日(同時多発テロ)を忘れるな以降は、しばしば各地のテロや乱射事件でも使われるようになってきています。


戦艦メイン号爆沈事件(米西戦争)


戦艦メイン号爆発の原因は爆弾か魚雷

(ニューヨークワールド紙)

 メイン号を忘れるなの戦艦爆沈事件は1898年2月15日に起きました。その頃、第二次キューバ独立戦争でスペインの軍資金は枯渇し、独立軍はキューバの半分以上を支配し戦いを有利に進めていました。

 しかし、1月にハバナで暴動が発生。アメリカ人保護のために派遣され湾内で停泊していた戦艦メイン号が、爆発して沈没し266名が死亡してしまいます。原因は未だに不明で、その後の再三の調査では欠陥ボイラーの自然発火説が最有力ですが、当時は3月に米海軍が機雷原因説を公表。4月には米議会は、キューバ独立を求めてスペインに宣戦を布告しました。

 発端はキューバでしたが、アメリカはスペイン領のプエルトリコとフィリピンとグァムでも交戦し、8月までにスペインは全戦線で戦闘能力を失いました。キューバは形ばかりの独立を達成しますが、その後はアメリカの保護国化してしまいます。

スペイン官憲に裸にされ、反乱軍の密書

を持っていないか検査される女性観光客

(ニューヨークジャーナル紙)

 キューバと同じように独立戦争が進んでいたフィリピンの場合は、さらに気の毒でした。米西戦争の勝利者でありながら、続く米比戦争でアメリカに敗れて再び植民地化され、日本占領時代を経て戦後まで、独立の夢は先送りされてしまいました。中国の南シナ海進出で、米軍はフィリピンに戦闘機とフリゲート艦を再配備しますが、1991年にいったん撤退したのも、フィリピン人の微妙な反米感情に由来するものです。

 アメリカの帝国主義に火をつけたのは、当時の新聞の拡販競争によるものといわれています。特にニューヨークの二誌(左右の画像)が、扇情的な通俗記事や娯楽記事の掲載を競い合い、事実の捏造や誤解を招く見出しでスペインをおとしめ、キューバに同情する世論をリードしたと言われています。


バチスタ政権


Fulgencio Batista

 1902年建国のキューバ共和国は、独立の根本をゆるがす内政干渉権をアメリカに与え、さらに2ヶ所の米運基地を許していました。うちグァンタナモ海軍基地は永久租借で、断交中も健在でした。ブッシュ政権時代にアルカイダの拷問が行われ、有名になった場所です。

 経済も、もちろんアメリカ資本が支配しました。政治は腐敗し頻繁に反乱が起こって、その都度、米軍が介入して鎮圧する不穏な政情が続きます。国民の不満をやわらげるため、アメリカも内政干渉権を放棄するしかありませんでした。

 しかし、一介の軍曹だったバチスタの一団が1933年に反乱を起こし、さらにバチスタ本人が1936年に政治の表舞台に出てから一転してキューバは安定します。1940年には、非白人で初の大統領に就任しました。ムラート(白人と黒人の混血)のほかにインディオや中国人の血を引いていたと言われています。資本主義を支持しアメリカを讃える一方で、組合や共産党(当時)の支援を受け重要な社会改革を実行しました。

1950年代のアメリカ人観光客とハバナのスラム 

 ところが、バチスタは1944年に一期で大統領を辞めてしまいました。しかも、後継候補が意に反し選挙に敗れてしまうと、残る任期中に国庫を使い果たすなど次期政権に嫌がらせをした上で出国。

 ニューヨークのアストリア‐ウォルドルフ・ホテルとフロリダのデイトナビーチの自宅を行き来する8年のアメリカ暮らしの間に、マフィア幹部と親交を深めました。1952年に帰国して政権奪回を目指しましたが、選挙で勝てる見通しが立たず、軍事クーデターを起こして大統領の座を奪い取ります。

バチスタの銃殺隊

 しかし、第二次バチスタ政権は反共に転じ、かつての社会改革への情熱もありませんでした。代わりにマフィアに競馬やカジノの利権を与え、首都ハバナはギャンブルと麻薬の都に変容を遂げます。アメリカから追放されたマフィアの親分ラッキー・ルチアーノや、その財政顧問でユダヤ系ロシア・ギャングのマイヤー・ランスキーもアメリカ時代の人脈でした。

 経済ではアメリカの共和党アイゼンハワー政権に迎合し、1959年にはアメリカ資本が、キューバの輸入の2/3と、40%のサトウキビ畑、ほぼ全ての牧場、90%の鉱山、80%の電力、実質的に全ての石油産業を支配していました。その一方で庶民の生活は困窮を極め、反乱を未然に防ぐため7年間に2万人が処刑されたといわれています。

お忙しい方は2分52秒からごらんください。