バージニア州シャーロッツビル…南軍将軍像の撤去で極右テロ
トランプ大統領を支持する白人至上主義者の実態
8月12日にバージニア州のシャーロッツビルで、白人至上主義者と人種差別に反対する人々が衝突しました。トランプ大統領が人種差別を擁護するような煮え切らない態度を示し、ついにバノン主席戦略官顧問を解任せざるを得なくなったのはご存じですね。
その発端となったのが、南北戦争で奮戦した南軍の英雄の銅像を撤去する運動ですが、私たちが住むケンタッキー州レキシントンでも、市長が銅像を移転する計画を前倒しすると声明して、珍しくワイドショーの話題になりました。
日本の例を挙げるなら、戊辰戦争(明治維新)に敗れた新選組の近藤勇や土方歳三の銅像を撤去するようなもので、そこまで目くじらを立てなくてもよいのではないかと思われる方も多いことでしょう。実のところ、アメリカでもアンケート を取ってみると、トランプ大統領の対応を不十分と思う人は52%(十分:27%)と多いのですが、南軍の英雄の銅像を撤去すべきと考える人は27%(撤去不要:62%)と、意外と少ないのです。
それでも、銅像は撤去しなければいけないのでしょうか?レキシントンの例を含め具体的にご説明します。
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レキシントンKYの銅像 =====
John
Hunt Morgan
John
C. Breckinridge
レキシントンの銅像は2つ。ふたりともレキシントンの出身です。一つは旧市庁舎(コートハウス)前にあるジョン・ハント・モーガンの騎乗の銅像…モーガンは西部戦線で既に南軍の敗色濃厚となってから、2460名の騎兵を率いてテネシーを発し、北軍真っただ中のケンタッキー、インディアナ、オハイオを46日間にわたって1600km駆け抜けた准将です。しかし、南北戦争の帰趨に影響を与えることはありませんでした。
もう一つは旧市庁舎の隣の広場にあるブレッケンリッジ将軍の銅像です。ブレッケンリッジは第14代の副大統領でしたが、南北戦争では南軍の将軍として各地を転戦し、最後の陸軍長官となり南軍の降伏交渉の役を担いました。こちらの像は2010年に再開発で別の場所から移動して来たばかりでしたが、その後あらためて反省するには、この広場は昔の奴隷市場の跡地で、そこに南軍の将軍の銅像はまずいでしょうというわけです。つまり、2010年のレキシントンでは、リベラルな市長も含め誰も気にしていなかったのです。
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2015年6月黒人教会乱射事件 =====
事情が変わったのは、2015年6月にサウスカロライナ州チャールストンの南部最古の黒人教会で、21歳の白人青年が銃を乱射し礼拝中の黒人9人を射殺してからです。犯人のフェイスブックには、胸にアパルトヘイト(人種隔離政策)時代の南アフリカとローデシア(現ジンバブエ)の旗を縫い付けたジャケットを着たり、星条旗を焼いて南軍旗を掲げたりする写真があふれていて、南軍旗が人種差別のシンボルとして利用されるのを放置できない雰囲気が生まれました。
サウスカロライナ州は迅速に対応し、州の議事堂に掲げられた南軍旗を降ろします。他の南部諸州でも、南軍旗是非の議論が沸騰します。ウォルマート、シアーズ、アマゾン、eベイなど大手小売りチェーンは、相次いで南軍旗の販売を停止しました。
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全米の南軍記念物 =====
南軍関係の記念碑や銅像の撤去の話も、その流れです。人種差別に抗議する 「 南部貧困法律センター 」 の調査によれば、アメリカ各地には下図のような南軍関係の記念碑や銅像などがあります。
これで初めて知ったのですが、私たちの近所の小学校にも南軍の猛将の名前がついていました。普通はストーンウォール小学校と呼ばれているので気がつかないのも当然ですが、正式名はストーンウォール・ジャクソン小学校…テネシー州南東部のチャタヌガ方面で、石壁(ストーンウォール)のような固い守備を誇ったジャクソン将軍の名をいただいたようです。
興味深いのは、 1895~1915年に南軍記念物の第一次建造ブームがあり、戦後にも1950年代半ばから小規模な第二次ブームがあった事実です。マザージョーンズ誌のこちらの記事 には、建造件数の推移のグラフがありますが、著作権の関係でコピーできないので直接ご参照ください。
レキシントンの例でも、ブレッケンリッジ像は1887年と少し早めですが、モーガンの騎馬像の建造は1911年、小学校の命名は1961年と上述の法則通りです。ブレッケンリッジ像はケンタッキー州政府の建造…南北戦争前に最年少で合衆国の副大統領を務めた人物ですから、100%南軍記念物とは言い切れません。モーガン像は 「 南部貧困法律センター 」 が 「 ネオ南部連合 」 と認定した 「 南部連合の娘たち 」 という右翼団体の寄贈…正に第一次建造ブームが起きる直前の1894年に創設された古い団体です。
上記の記事を参考にすると、南北戦争後のアメリカ南部の人種差別は以下のように時代区分されます。
1861-1865: 南北戦争
1865-1875: 南部再建時代…南部との融和を目指した共和党穏健派のリンカーン大統領が暗殺され、当時は今と逆でリベラルな立場だった共和党の急進派が連邦政府の実権を握る。南部諸州では白人旧官僚が公職から追放され、1870年には憲法修正第15条でどの州も人種で選挙権を差別できないことが決まり、北部傀儡政権により黒人にも投票権が与えられた。第一次KKK(クー・クラックス・クラン)やナイトライダーら白人至上主義団体が結成されたが、徹底的に弾圧された。
1875-1895: 南部旧支配層が実権を取り戻し、リンチ(私刑)事件が激増した。黒人は公民権を奪われ、南部ではジム・クロウ法と呼ばれる人種差別法が次々と制定された。1896年に、列車の車両を白人用と黒人用に区分するルイジアナ州法について、連邦最高裁が 「分離すれど 平等(Separate
but Equal) 」 で知られる合憲判決を下し、人種差別の流れは決定的となる。
Ku
Klux Klan, Gainesville FL, 1922
1895-1915: ジム・クロウ法により、南部では黒人の公民権が実質的に奪われた。リンチ事件は引続き頻繁に起き、南部では南北戦争の動機や戦前の南部の文化を 「 失われた大義(Lost
Cause) 」 として美化する動きが活発化した。KKKら白人至上主義団体が復活し、各地に南北戦争の記念碑や銅像が建てられた 。
1915-1955: 南部で人種差別が徹底した安定期…第一次世界大戦中から移民制限が始まり、北部の工業地帯で人手不足が広がる。この時代には南部黒人の大移動(Great
Migration)と、アパラチア山脈の炭鉱労働者ら貧困白人層の移動(Appalachian
Migration)が起きた。
1955-1970: 1954年に連邦最高裁で白人と黒人の公立校を分離するカンザス州法が違憲とされ、公民権運動が始まる。南部の白人は激しく強硬に抵抗し、再び南北戦争の記念碑を建て始めた 。
このように、南軍の記念碑や銅像が建てられた背景には、もともと奴隷制や人種差別を正当化する白人至上主義者の意図が働いていたケースが多い のです。 「 失われた大義 」 とは、 「 風と共に去りぬ 」 に描かれたように南北戦争前に奴隷は思いやりのある主人に仕え幸せに暮らしていたとか、リー将軍は奴隷制に反対だったが郷土のためにやむを得ず戦ったとか、北軍の作戦は人海戦術で卑怯だった…南部は独立したかっただけとか、南北戦争前の南部文化への(フェイクニュース的な)ノスタルジーです。
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シャーロッツビルのリー将軍像 =====
Monticello
シャーロッツビルはブルーリッジ山脈の麓、キャンパス内に第3代ジェファーソン大統領 の邸宅(通称モンティチェロ)があり世界遺産にも指定されているバージニア大学の大学町で人口5万人、周辺を合わせても23万人の風光明媚な地方都市です。
General
Lee Statue
今回のトラブルの引き金となったリー将軍の銅像は、バージニア大学中退の証券マンでマッキンタイアという人が、1917年に全米彫刻協会の彫刻家たちに頼まれて4ヶ所の公園用地を買って建てた4像のうちの1像です。
南軍関連ではほかにもう1像、前述のストーンウォール・ジャクソン将軍の像がありますが、残る2像は独立戦争で活躍した将軍とジェファーソン大統領の命で太平洋への陸路を開拓したルイスとクラークらの銅像…全てバージニア出身者を記念するもので、白人至上主義を強く意識して建てられたわけではなさそうです。
しかし、南軍関連の銅像撤去の動きの中で、シャーロッツビルでは昨2016年3月に、黒人の副市長が銅像の脇で記者会見を開き、 市議会に 銅像の撤去と公園名を 「 リー公園 」 から 「 奴隷解放公園 」 に改めることを求めると発表… 「 銅像はコミュニティの恥ずべき存在で、そのせいで公園に足を踏み入れない人もいる 」 と刺激的なコメントをしました。ついで黒人団体の中には、リー将軍をテロリスト呼ばわりする人まで現れます。ちなみに、シャーロッツビルの人口の7割は白人、2割が黒人、インディアンが約6%です。
逆に、副市長の主張はリー将軍のバージニアへの貢献と歴史的意義を軽んじ、社会の分断を招くものだとして非難する人々も現れます。4月に定員5名のシャーロッツビル市議会は第三者委員会を設け、リー将軍像とジャクソン将軍像の取扱いについて助言を求めました。
第三者委員会は11月1日の暫定投票では6:3で二つの像の現在地存続を認めましたが、その後の公聴会を経て同月28日の再投票では、7:2でリー将軍像をマッキンタイア公園に移転し、8:1でジャクソン将軍像の現在地存続を認める答申を決めました。市議会は、これを受け今年2月に3:2でリー将軍像の移転を決定、全会一致で公園は改名されることになりました。
それに対して、 「 南北戦争退役兵の息子たち 」 という 「 ネオ南部連合 」 や 銅像の製作者や寄贈者の子孫らが集団訴訟で銅像移転の差し止めを訴えました。根拠は、銅像の移転は南北戦争の記念物を守る州法に違反するというものです…程度の差こそあれ、バージニアのほか、ノースカロライナ、アラバマ、ミシシッピ、ジョージアの4州には同種の州法があり、サウスカロライナとテネシーでは州議会や歴史委員会の2/3の賛同が必要など撤去に高いハードルが設けられています。
これに対しシャーロッツビル市は、リー将軍像は南北戦争の記念物ではないと反論し、4月に市議会は3:2であらためて銅像の完全撤去と売却を決めます。5月2日に裁判所は、判決が下されるまで半年の暫定的な撤去差し止めを、市に命じました。
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極右勢力の介入 =====
と、ここまでは比較的ローカルな紛争だったのですが、5月13日を境に各地からオルトライト(Alt-Right=代替右翼)と呼ばれる極右勢力が集まり、全米レベルの事件に発展します。オルトライトの指導者リチャード・B・スペンサーの呼びかけで、リー将軍像の公園で日暮れを待ち、人々に忌まわしい昔のKKKの儀式やリンチを思い起こさせるたいまつ集会を開きました。
オルトライトとは、共和党主流派の保守主義(ライト)と違いグローバリズムを否定し、 「 アメリカ・ファースト 」 で トランプ大統領のメキシコ国境の壁建設やイスラム教徒の入国制限、TPPや温暖化防止のパリ協定脱退の公約を 熱烈に支持… 実は白人至上主義や反ユダヤ主義など雑多な人種差別主義者を糾合した政治勢力です。 5月1日にニューオリンズで南軍大統領ジェファーソン・デイビスの像が撤去された際にも、小トラブルを起こしたばかりでした。群衆は 「 ユダヤ人は俺たちを滅ぼせないぞ!(Jews
will not replace us!) 」 とか 「 ロシアは友だちだ!(Russia
is our friend!) 」 と口々に叫び、スぺンサーは演説の中で 「 血と土(Blood
and Soil) 」 という民族純血主義を表す ナチス 用語を使いました。
翌日は反発した100人余りの市民が自発的に集まり、夜には静穏なキャンドルデモをしましたが、大きな衝突はなく、5月の集会は負傷者も逮捕者もなしで無事に終わります。しかし、ユダヤ系で民主党員ながら銅像の撤去には慎重だった市長も態度を硬化し、極右の集会を厳しく非難しました。市長はオバマ政権にも近かった人物で、時とともに紛争はトランプ対オバマの代理戦争の要素を色濃くして行きます。
次は7月8日、KKKが銅像撤去に抗議する集会を開きました。前夜には、1年ぶりに銅像の台座に 「 黒人の命も大事(Black
Lives Matter) 」 の落書きがスプレーされていました。 「 黒人の命も大事 」 は、全米で無防備の黒人が白人警官に射殺される事件が相次ぎ、抗議運動の中で生まれたスローガンです。約50人のKKK団員と、反発する数百人の市民が衝突し、警官隊が催涙弾を使用し23人が逮捕されました。
この間、シャーロッツビル在住で無名のジェーソン・ケスラーという33~34歳の男が、ツイッターで副市長を激しく非難して銅像の撤去反対運動で頭角を現し 、伝統主義労働者党(Traditionalist
Worker Party)らと連携して8月12日の 「 右翼は結集せよ(Unite
the Right) 」 集会の開催を計画します。
市は、中心部に近いほんの1ブロックの市街地に多数の群衆が集まる事態を懸念し、会場を郊外の広い公園に変える条件付きで許可しましたが、裁判所がケスラーの訴えを認め、集会はリー将軍像がある公園で開かれることになりました。しかし、集会前日の11日夜に手にたいまつを掲げた群衆がバージニア大学に向かって行進し、大学を創設したジェファーソン大統領像の足元で気勢を上げ、学生らと衝突しました。
VIDEO
VIDEO
8月11日夜のバージニア大学構内の衝突
伝統的労働者党が8月12日の集会を呼びかける動画
準主催者の伝統主義労働者党の名はナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)を連想させますが、党首を名乗る26歳のマシュー・ハインバックは、昨年3月の大統領選挙中の演説会で、トランプ 候補が 「 訴えられたら弁護料はオレが払う 」 と言うのを真に受け、黒人女性を会場から"つまみ出し"暴行罪で有罪となった人物。右上は 「 右翼は結集せよ 」 集会を呼びかける動画ですが、ISISの宣伝動画と雰囲気はそっくりで 、「 ユダヤ人や黒人によって白人が虐げられて来た歴史 」 を説き、白人は被害者として人種差別を正当化しています。今年4月にはケンタッキー東部のアパラチア山中でオルトライトのスペンサーを招いて集会を開きましたが、生々しい様子にご興味のある方は以下をご参照ください。
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ABC
News 20/20 Fractured America (粉々に砕けたアメリカ)… 1 /2 /3
続く翌12日の騒乱の中、オハイオからやって来た20歳のジェームズ・アレックス・フィールズが車を暴走させるテロが起き、パラリーガルでシャーロッツビル近郊在住のヘザー・へイヤーさん(32歳)が亡くなり19人が負傷しました。
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トランプ政権の矛盾 =====
私が事件の評価をするのは蛇足かもしれませんが、トランプ大統領が喧嘩両成敗のような発言をしたことについて、平均的なアメリカ人が納得していません。ハインバック自身が言うように、ハインバックはトランプの指示に従って黒人女性に暴行したのであり、シャーロッツビルに集まった極右勢力には大統領選挙中のトランプの言動により扇動された若者が多いのです。
前述のように、1915~55年には人手不足の北部工業地帯に向け南部から 黒人の大移動が起きましたが、同時期に南部の貧困白人層も大挙して流入しました。そうした北部工業地帯がラストベルト(錆びついた地域)と化し、北部のヤンキー文化に馴染めず育った若者が今トランプを支持し、南軍英雄像の撤去に反対しても不思議ではありません。トランプのスローガン「 アメリカを再び偉大に(Make
America Great Again) 」 はレーガン大統領のコピーなのだそうですが、極右勢力は南北戦争前の時代や、公民権運動前の黒人リンチが盛行していた時代への回帰を願っているのではないかと疑いたくもなります。
いずれにせよ、トランプ大統領のホワイトハウスは、先日までユダヤ人で娘婿のクシュナー上級顧問と、反ユダヤの白人至上主義者を代表するバノン主席戦略官と、敵対する両極に足をかけていたのですから、どちらかが解任される宿命だったのです。