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2018年2月15日 (第138号)

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社 会

歴 史

 17世紀前半…インディアン国家イロコイ連邦との戦争が勃発

 ニューフランスの父シャンプランのカナダ植民地建設

 フランス人の探検家カルチエがビーバーの毛皮を持ち帰ってから19世紀半ばまで、ヨーロッパで300年にわたりビーバーハットが流行したことは16世紀のカナダ探検の記事の中で書きましたが、その後はスポンサーのフランソワ1世が熱意を失い、ヌーベルフランス(ニューフランス)植民地の建設は中断しました。

 代わってインディアンと交易し毛皮をヨーロッパに持ち帰ったのは、北西大西洋の漁場に捕鯨やタラ漁に来ていた英仏・スペイン・ポルトガル・スカンジナビアなど多国籍の漁民でした。しかし、中でも多数を占めていたスペイン・バスク地方の漁民は、英西戦争で1585年にニューファンドランド島から一掃されてしまいます。

 ===== ヌーベルフランス(ニューフランス) =====

 カルチエの後で、最初にセントローレンス川に戻ってきたのは同じブルターニュ半島出身のデュポンでした。正確な年月は不明ですが、1580年代には既にセントローレンス川をさかのぼり、沿岸のインディアンと毛皮を交易していました。しかし、植民地の建設はデュポンの思い通りに進みません。フランス国王アンリ4世が、ユグノー戦争(1562∼98年)の功労者らに北米の毛皮交易を独占する勅許を与え、本国の政治情勢次第で勅許権者がコロコロと変わったからです。

 詳しくは追って別の記事でご案内しますが、ユグノー戦争は新教徒(プロテスタント)と旧教徒(カトリック)の対立で起きたフランスの宗教内戦です。新教徒の代表だったルイ王朝の創始者アンリ4世は、勝利を収めてすぐに旧教に改宗し柔軟な宗教政策を押し進めましたが、1610年に暗殺されてしまいます。息子のルイ13世は旧教徒で、新教徒を弾圧したことから内戦が再発、リシュリュー枢機卿が宰相に就任して国内を制圧する1630年代初頭まで、新教・旧教両貴族が入り乱れ宮廷で利権を争う時代が続きました。

 アンリ4世の勅許を最初に得たのは、北米沿岸でタラ漁と毛皮交易を営んでいたショーバン(新教徒)でした。しかし、同行したデュポンの助言を聞かずセントローレンス川下流のサグネ川河口に交易所(1600年)を設け、寒さで一冬も越すことができずに失敗してしまいます。次いで勅許を得たシャスト(旧教徒)のセントローレンス川探検(1603年)には、デュポンの甥で王室のお抱え地理士シャンプランも加わり、この旅でおじの経験と知識を学びましたが、これからという時にシャストは亡くなってしまいました。

図1 ニューファンドランド・ラブラドル・アカディア・カナダ・ニューイングランド (⇒拡大) 

 三度目の正直で勅許を手に入れたのが、本命のピエール・ドゥガ(新教徒)です。先の2回の探検にも参加していていました。ドゥガとデュポンシャンプランの一行は、後の米加国境となるセントクロワ川の河口に1604年に入植しますが、冬が厳しいことから対岸のノバスコシア半島に移り、翌1605年にポートロワイヤル植民地を創設しました。

 1606年にオランダ西インド会社の略奪に遭いましたが、ようやく危機を乗り越え植民地が順調に成長しかけたところで、ドゥガの毛皮交易独占をねたむ商人の声に押されアンリ4世が勅許を破棄。やむを得ず1607年に一行はいったん帰仏します。

===== セントローレンス川のカナダ植民地 =====

 その後ドゥガが再び北米の地を踏むことはありませんでしたが、ドゥガの支援を受け植民地建設の夢を託されたシャンプランは1608年に北米に戻り、人口28人の集落ケベック(現ケベックシティ)を開きました。場所はアカディアと北アパラチア山脈を隔て、背中合わせのセントローレンス川下流の高台…カナダ植民地の始りです。

現在のケベックシティ

 図1でごらんいただけますように、五大湖から注ぐセントローレンス川の本流には、ほかに二本の大河が地溝帯沿いに流れてきて現モントリオール周辺の湿地帯で合流しますが、そのうち西から合流するオタワ川は、ニピシング湖経由でヒューロン湖に至る往時の主要毛皮交易ルートで、さらにその先はスペリオル湖から現カナダ・マニトバ州のウィニペグ湖方面まで、湖沼や河川伝いに水運でつながっていました。

 時代が下るにつれセントローレンス川の下流に当たるオタワ川以北がロワーカナダ、セントローレンス川の上流でオタワ川以南がアッパーカナダと、呼び分けられるようになりました。それぞれ後のケベック州とオンタリオ州の前身です。

 南から合流するリシュリュー川は、シャンプレーン湖からハドソン川の渓谷経由でニューヨークのマンハッタン島に通じる道筋に当たり、西は現ニューヨーク州、東は現バーモント州という位置関係です。 

図2 Lake Champlain - Hudson River (⇒拡大)

 1609年にシャンプランは、親交を深めたケベック周辺のインディアンの願いを聞き入れ、セントローレンス川一帯からイロコイ連邦を締め出す目的の軍事遠征に加わります。果たして遠征隊はシャンプレーン湖付近でイロコイ連邦の部隊に遭遇しましたが、多勢に無勢にもかかわらず、シャンプランらが火縄銃で酋長3人を殺害し難なく窮地を脱しました。

 1610年には前年の報復でセントローレンス川に進出して来たモホーク族100人を、周辺インディアンがシャンプランらの助けを借り砦ごと殲滅…カナダ植民地とイロコイ連邦の対立は決定的になりました。

 その間、フランス本国ではアンリ4世の暗殺事件が起き、旧教徒の王妃が9歳のルイ13世の後見となって、新教徒ドゥガの立場が弱くなります。シャンプランはドゥガの勧めで帰仏して、宮廷に顔が利く人物の娘でまだ12歳のエレーヌと、31歳差の政略結婚をしました。

 おかげで再びカナダに戻ったシャンプランは、商人同士の競合による毛皮の値崩れを避けるためにトラスト(協同組合)を結成し、1614年には国王の信認を得てカナダの毛皮取引を独占する勅許会社に格上げします。しかし、その後も本国の政治情勢に振り回され、なかなか植民地建設に没頭できない日々が続きました。

 植民地経営がようやく軌道に乗るのは、1624年に宰相(首相)に就任したリシュリューの下でフランスの政治が安定し、1627年に本国の各界有力者100人が出資する通称百友会社(Compagnie des Cent-Associés)が設立されてからです。シャンプランはヌーベルフランス総督となり、それまで毛皮商人以外には数家族しかいなかった植民地に、一般の商工業者や農民の移民が奨励されるようになりました。

シャンプランが1632年に作製した地図 (⇒拡大)

 とはいえ、シャンプラン時代のヌーベルフランス(フランス植民地)の白人人口はカナダとアカディアを合わせても百人未満で始まり、晩年に至っても、たかだか2~3百人でした。北米のイギリスやオランダの植民地が広くヨーロッパ各地で弾圧された新教徒の受け皿になったのに対し、リシュリュー政権が入植者を旧教徒に限ったのも人口が伸び悩んだ一つの要因です。

 そんな小人数で、イロコイ連邦の脅威に立ち向かうには限界があります。1613年にシャンプランは、ヒューロン湖方面の探検の途中でオタワ川のインディアンに、交易路の要となる現モントリオールの地に移住するよう呼びかけるなど、反イロコイ連邦のインディアンと協力して植民地の防御に腐心していました。

 1615年には300人のヒューロン族とカヌーでオンタリオ湖を渡り、イロコイ連邦のオナイダ族の村を襲いましたが、シャンプラン自身もケガを負い遠征攻撃は失敗に終わりました。1620年には取敢えずイロコイ連邦と平和条約を結んで毛皮交易を始める一方で、ケベックの守りを堅固にしました。

 ところが、脅威は突然、全く別方面からやって来ました。フランスで宗教内戦が再燃し、イギリスがユグノー(新教徒)の反乱を支援し英仏戦争(1627~32年)が勃発したのです。1629年にケベックは、英人デビッド・カークの私掠船(国家公認の海賊船)により、本国からの糧食の補給路を絶たれて降伏せざるを得ませんでした。

 実は英仏本国間では、ケベックが降伏する3ヶ月前に平和条約が交わされており、本来ならカナダ植民地は直ちにフランスに返還されるべきでした。しかし、公式の和平手続が手間取って、いったん帰仏させられたシャンプランがカナダに帰任できたのは4年後の1633年。シャンプランは、その2年後に脳卒中で亡くなります。

現在のモントリオール

 シャンプランの遺志を引き継いだのは、カトリック・ユートピアの実現を夢みるイエズス会の宣教師たちでした。本国から新たな入植者を招き、1642年に現モントリオールの前身となる集落が誕生します。

 1640年代にイエズス会は五大湖方面に進出し、毛皮取引と引き換えにヒューロン族の多くを教化。ヒューロン族は、アッパーカナダでフランス系毛皮商人の仲買人的な機能を果たしました。

 一方のイロコイ連邦は、オランダの毛皮商人から銃を手に入れてハドソン川周辺ビーバーを乱獲…領内にビーバーが枯渇すると隣接する他部族の支配地を次々に侵し、ヒューロン族を特別扱いするフランス植民地とも抗争が再燃し、モントリオールは頻繁に襲撃されるようになりました。

===== イロコイ連邦とビーバー戦争(1638年~) =====

 ハドソン川とハドソン湾にその名を遺した英人ヘンリー・ハドソンは、1607~10年にあわただしく4回の探検をしていますが、最初の2回はイギリスのモスクワ会社に雇われ北極海を東航してアジアに至るつもりが、行手を氷に閉ざされ失敗した航海で、最後はイギリスのバー二ジア会社と東インド会社の依頼で北極海を西に抜けるつもりが、船員の反乱が起きハドソン湾に息子らとともに置き去りにされた悲劇的な航海でした。

 1609年の3回目の航海でも、ハドソン川を外洋船で中流まで遡上して引き返し、本来の西回りアジア航路発見の目的は果たせませんでしたが、現アルバニー(オールバニ)付近でマヒカン族らインディアンと毛皮の交易に成功し、スポンサーのオランダ東インド会社を喜ばせました。

 ここも実は、16世紀に仏人カルチエの仲間が訪れ拠点を築こうとした土地でしたが、オランダは翌年からこの地で交易を始め、1614年にマヒカン族の土地に許可を得てフォートナッソーの砦を設けました。オランダ植民地ニューネーデルラントの誕生です。

1684年に発行されたニューネーデルラントの地図 (⇒拡大)

 頭痛は、ここでもイロコイ連邦と反イロコイ連邦諸部族の抗争でした。早速、オランダ植民地はマヒカン族とイロコイ連邦のモホーク族の停戦協定を仲介しましたが、1617年に抗争が再燃し、翌年にかけてフォートナッソー砦も二度の水害に見舞われ、いったんはハドソン川中流域から撤退する羽目に追い込まれました。

 1624年に戻ってきてフォートオレンジの新砦を築いたオランダ植民地は、早速マヒカン族にカナダ諸部族との交易の橋渡しを頼み、一時的にはマヒカン族の利権拡大をねたむモホーク族と敵対しました。しかし、1628年にマヒカン族がモホーク族に屈しハドソン川の東岸に追いやられてから、イロコイ連邦がフォートオレンジの毛皮交易を独占する立場になります。

 この頃にはイロコイ連邦も反イロコイ連邦諸部族も、北米北東部のインディアンは、毛皮交易で得られるヨーロッパ製の衣類や鉄斧・やかん・鍋などの金属製品なしには暮らせないようになってきていました。ラム酒やウイスキーによるアル中の増加も問題でした。

 そして、上述のようにイロコイ連邦は、銃による乱獲でビーバーが枯渇する危機に見舞われ、1638年にすぐ西隣のウェンロー族の領土を侵略しました。フランスとの交易で元締め的な立場のヒューロン族と、オランダとの交易で元締め的なイロコイ連邦の勢力圏が重なる地域に住んでいて、板挟みのウェンロー族はそれまで双方に毛皮を売っていました。

 ウェンロー族は1643年に一掃され、生き残りはヒューロン族のもとに逃散しました。一般的に、これがビーバー戦争と後世に名を遺す血なまぐさい戦争の始まりとされていますが、当時のイロコイ連邦とヒューロン族は人口では2万5千∼3万人とほぼ拮抗し、イロコイ連邦にも中西部一円の諸部族を敵に回し一気に大攻勢をかけるほどの戦力はありませんでした。

図3 ビーバー戦争とイロコイ連邦の盛衰 (⇒拡大)

1620年

フランス植民地と平和条約締結。

1624∼28年

モホーク‐マヒカン戦争で、マヒカン族をハドソン川西岸から一掃。

1638~39年

ウェンロー族領土を侵略。1643年に一掃。

1640年代

仏交易路のヒューロン族集落を繰返し襲撃。1649年にジョージア湾の本拠を焼打ち、ヒューロン族は離散。

1649∼51年

ヒューロン湖とエリー・オンタリオ湖の間の半島地域からペトゥン族(タバコ族)やニュートラル族を一掃。

1656年

オハイオ地方から、エリー族、ショーニー族、レナぺ族(デラウェア族)、マイアミ族を一掃。

1664年

オランダ植民地をイギリスが占領。イギリスのニューヨーク植民地が誕生。

1663~77年

メリーランド植民地と同盟するサスケハナ族を侵略。1674年のメリーランドの寝返り後、サスケハナ族一掃。

1681年

フランス植民地がマイアミ族とイリノイ族に銃の販売を解禁。

1688∼97年

イギリスと同盟し、フランスを相手にウィリアム王戦争。

1701年

反イロコイ連邦39部族及びフランス植民地と平和条約。オハイオ川以北でエリー湖以西の地から撤退。

1768年

スタンウィックス砦条約で、ペンシルバニアの大半とケンタッキーをイギリス植民地に割譲。

1775∼83年

米独立戦争でイロコイ連邦は英米両サイドに分裂。部族が互いに戦い、村々は荒廃し軍事力も喪失。

 戦力の均衡が破れたのは、1640年にイギリスのニューイングランド植民地が、イロコイ連邦との毛皮取引をオランダ植民地から奪おうと、交易の見返りに銃を与えるようになってからです。オランダ植民地も対抗して、イロコイ連邦に多数の銃と大量の弾薬を与えるようになり、イロコイ連邦は次第に自ら銃の修理や改造をする技術を身につけます。対する当時のフランス植民地は、カトリックに改宗したインディアンに例外的に認めるほかは、銃の供給を禁じていました。

 1640年代に入り、イロコイ連邦はセントローレンス川沿いのヒューロン族の村を襲い始めました。フランス植民地との交易路を断ち、ヒューロン族の対仏交易の利権を奪う目的です。1645年にフランス植民地は休戦の調停を試みましたが、ヒューロン族の元締めの立場を尊重し、イロコイ連邦が求める直接交易には応じません。休戦協議は決裂し、ヒューロン族に加勢してフランス植民地もイロコイ連邦と敵対しました。

 しかし、1649年3月にヒューロン族の本拠地で、イエズス会の伝道所もある2つの村が 1千人のイロコイ連邦戦士に焼打ちされて壊滅、仏人宣教師を含む約300人が殺されました。イロコイ連邦はオランダ植民地に貸与された400丁の銃とあり余る弾薬で武装していたそうです。当時のヒューロン族は戦争や伝染病で既に人口を1万2千人に減らしていましたが、生き延びた人々は蓄えを敵に渡すまいと15の村を自ら焼いて、周辺部族のもとに落ち延びて行きました。うち 1万人はジョージア湾沖合の島で飢えと寒さに苛まれる冬を越した後、オタワ川伝いにケベック方面に移住します。ジョージア湾南岸のペトゥン族(タバコ族)も秋にイロコイ連邦に滅ぼされ、ヒューロン族の難民とともに、ヒューロン湖とミシガン湖を区切るマキノー海峡の方面に逃れました。

 ナイアガラ半島方面に住んでいたニュートラル族の一部は、降伏してイロコイ連邦のセネカ族に吸収されたと伝えられています。イロコイ連邦の人口も伝染病や戦闘で減り、イロコイ連邦はその後も降伏する他部族から戦士を補充しながら戦争を続け、支配地域を拡大していきました。