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2018年2月15日 (第138号)

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社 会

歴 史

 17世紀 白人入植時代の北米北東部インディアンの暮らしぶり

 狩猟採集・遊牧型から農耕・定住型まで部族ごと様々

 17世紀前半の各地の植民地はいずれも規模が小さく、まだ植民地同士の抗争が起きるほど発展していませんでした。しかし、フランス植民地は滑り出しからインディアン部族間の戦争に巻き込まれ、さらには本国の新教・旧教勢力の対立が飛び火して、植民地の勅許権者や総督が頻繁にすげ替えられたり、何度も武力抗争が起きたりで、順調な発展が妨げられました。

 この記事では、フランスのカナダとアカディアの植民地や、イギリスのニューイングランド植民地、オランダのニューネーデルラント植民地(後のニューヨーク英植民地)と深く関わることになった北米北東部のインディアン部族の分布と暮らしぶりについてご案内します。

===== 北米北東部のインディアン =====

 まず下図で、16世紀のインディアン諸部族の原住地と初期の4植民地のおよその範囲をごらんください。16世紀にセントローレンス川をモントリオールまでさかのぼった仏人カルチエ▮  と、17世紀にその先を探検した仏人シャンプラン▮  、ハドソン川とハドソン湾を探検した英人ハドソン▮  の探検路も書き加えましたから、参考になさってください。

ヨーロッパ人の探検ルートと仏植民地・インディアン(▮  アルゴンキン語族 ▮  イロコイ語族)の原住地 (⇒拡大)

 その昔、北米北東部で暮らしていたインディアンは下表のようにアルゴンキン語とイロコイ語を離す部族に分類されますが、言葉よりも農業の発展段階や生活様式の違いに注目してお読みください。

 北米史で特に重要なのは、下表の中で朱記したイロコイ連邦と呼ばれるインディアン国家(右図)です。17世紀にはフランスと対立し、オランダやイギリスと交易して武力で他の部族を圧倒し、勢力を現アメリカの中西部一円に拡大しました。18世紀には次第にイギリス植民地に領土を浸食され、アメリカ独立戦争で事実上壊滅します。

 青で記したワバナキ同盟はイエズス会の仏人宣教師に教化され、南隣のニューイングランド植民地と抗争を繰り返しました。

言語

部族

アルゴンキン語族

アルゴンキン族、モンタネー族、オタワ族、オジブエ族、ポタワトミ族、クリー族…内陸部に居住

ワバナキ同盟(ミクマク族、アベナキ族、マリシート族、ウィネパング族、ペノブスコット族)…アカディアに居住

ワンパノアグ族、ナラガンセット族、二プマク族、ピクォート族、モヒガン族…ニューイングランドに居住

マヒカン族…ハドソン川中流域に住んでいたが、イロコイ連邦に押し出され東岸に移動

レナペ族(デラウェア族)…デラウェア川周辺に居住していたが、後にオハイオに移住

イロコイ語族

幻のイロコイ族…16世紀セントローレンス川の中下流域に住んでいたが、その後17世紀には消息不明

イロコイ連邦…モホーク族、オナイダ族、オノンダガ族、カユーガ族、セネカ族、後にタスカローラ族も加入

ヒューロン族(ワイアンドット族)、ペトゥン族(タバコ族)、ニュートラル族、ウェンロー族、エリー族、サスケハナ族

===== 幻のイロコイ族とイロコイ連邦 =====

 下線付きで幻のイロコイ族と記したのは、16世紀にセントローレンス川を探検したフランス人のカルチエが親交を深めたインディアン部族です。紛らわしいのですが、イロコイ連邦の部族ではありませんからご注意ください。当時はセントローレンス川東岸に住むミクマク族やアベナキ族の支族マリシート族と交戦中でした。カルチエらの報告には、例えば1534年の春に幻のイロコイ族が、ガスペ半島の付け根のマサカー島で宿営していた200人のミクマク族を襲い、虐殺したと記されています。

 ところが、17世紀にフランス人が戻ってきた時に幻のイロコイ族は姿を消していました。現モントリオール付近にあった3千人規模の集落さえ跡形もなく、セントローレンス川沿岸はイロコイ連邦のモホーク族の狩猟場になっていました。幻のイロコイ族カルチエ探検隊が持ち込んだヨーロッパの伝染病が広まって絶滅してしまったのか、ミクマク族やアベナキ族、あるいはモホーク族と戦って絶滅したり、西に追いやられてヒューロン族に同化したのか、またはモホーク族が吸収したのか諸説があって真相は分かっていません。

===== 狩猟採集の遊牧型インディアン =====

Rabaska Canoe

 フランスの植民者は、セントローレンス湾西岸のモンタネー族に味方してモホーク族を追い払い、おかげでインディアン空白地帯にカナダ植民地を開く幸運を得ました。アッパーカントリー(上流地方)のアルゴンキン族やヒューロン族らとも親交を深め、まだ若い毛皮商人の男たちは干し肉とドライフルーツを固めたぺミカンという携帯食を携え、ラバスカというカバノキの樹皮製のカヌー(左の絵)に乗り、インディアンの案内で五大湖からウィニペグ湖と漕ぎ上って行きました。一艘で600枚のビーバーの毛皮を持ち帰ることができたそうです。

 モンタネー族もアルゴンキン族も、主に狩猟・採集を糧とする遊牧型のインディアンで、持ち運びも可能なウィグワムという住まいで暮らしていました。木の枝で作った枠組みをカバノキの樹皮で覆い、入口にムシロをかぶせたら完成です。

===== 季節移動の半定住型インディアン =====

Dome-Shaped Wigwam

Cone-Shaped Wigwam

 アカディアに住むミクマク族やアベナキ族は、夏は海岸の近くにドーム型のウィグワム(写真右・左)の集落を設け、漁労や原始的な農業を営んでいました。

 冬には家族中心の小グループに分かれ、内陸の森の中などに持ち運びの容易な円錐形の小型ウィグワム(写真右・右)を組み立てて住み、狩猟する季節移動を繰り返していました。冬の間に女は獣皮で衣服を作りました。

=== 農耕・定住型インディアン ===

 ピルグリムファーザーズら初期の入植者をを手厚くもてなしたワンパノアグ族などニューイングランドの部族は、アカディアの部族よりも農業に重きを置いた定住に近い暮らしをしていました。北米北東部に共通のインディアンの作物は、イロコイ連邦のインディアンに三姉妹と名づけられたトウモロコシ・インゲン・カボチャに、ジャガイモやタバコでした。夏には海岸寄りの風通しのいい木陰に移動しますが、冬は周囲を木柵で囲った集落に戻り、数家族共住のロングハウスか、同じウィグワムでもいちいち壊して持ち運ばない保温性の高い恒久住居で過ごします。

=== 男女分業・ロングハウス定住型インディアン ===

Longhouse

 イロコイ語族や、アルゴンキン語族の仲間でもデラウェア川周辺にいたレナぺ族や、バージニア植民地と抗争を繰り返したポウハタン族は、ワンパノアグ族らの住居よりも大きく、時には最大20家族が暮らせる巨大ロングハウスで暮らしていました。大半のインディアン部族は母系で、男たちは結婚により妻のロングハウスに婿入りします。女は農業、男は狩猟・戦闘と社会的な役割分担が明確で、その中から軍事力に秀でたイロコイ連邦が誕生したのも偶然ではありません。

 イロコイ連邦が誕生した時期について定説はありませんが、伝承を解析して1451年にできたいう説が有力です。アメリカの連邦制度のお手本になったとされる民主的な117条に及ぶ憲法に基づき、氏族ごとに選ばれた50名の酋長(Sachem)が年に一度集まって部族間の取決めを行い、戦時には部族ごとに戦時酋長を選ぶ決まりになっていました。

=== 北米北東部4植民地とインディアンの関わり ===

以上、17世紀の北米北東部の各地のインディアンと、英仏4植民地の関わりを下表にまとめてみました。

英仏4植民地とインディアンの関係 (○親密・×敵対・△親密→敵対)

(仏) アカディア

(仏) カナダ…セントローレンス川

(英) ニューイングランド

(蘭⇒英) ニューヨーク

○ワバナキ同盟

  (ミクマク・アベナキほか)

○モンタネー・アルゴンキン

○ヒューロンほか

○オタワ・オジブエほか

× イロコイ連邦

△ワンパノアグほか

○モヘガンクォート戦争

× ワバナキ同盟

  (ミクマク・アベナキほか)

○イロコイ連邦

× ピクォート…ピクォート戦争

△レナぺ(デラウェア)

× サスケハナ

ウィリアム王戦争(1689~97)前の開拓史

1604~07 ドゥガ植民地創設

1609 イエズス会伝道所設立

1613 英バージニア海軍占領

1621~35 スコットランド占領

1635~53 アカディア内戦

1654~67 イギリス占領

1674~76 オランダ占領

1677 ポート・ラトゥールの戦い

1609~16 シャンプラン遠征

1627 百友会社設立

1629~32 イングランド占領

1638~1701 ビーバー戦争

1648 ヒューロン族離散

1663 王領植民地

1667 イロコイ連邦平和条約

1680~イロコイ連邦交易妨害

1613 現メーンに仏交易所

1621 プリマス植民地感謝祭

1629 マサチューセッツ植民地

1630 現メーンに砦

1636~38 ピクォート戦争

1675~78 フィリップ王戦争

1624 蘭オレンジ砦創設

1643~45 キフト戦争

1655 ピーチツリー戦争

1659~63 エソパス戦争

1665~67 第二次英蘭戦争

1672~74 第三次英蘭戦争

1686 ニューイングランド自治領

  1687 セネカ族村落襲撃

ウィリアム王戦争(1689~97)…名誉革命・大同盟戦争

 

1689 フロントナック総督再任

1689 ボストン暴動

1689~91 ライスラーの反乱

1690 ポートロワイヤルの戦い1693 ポートロワイヤル襲撃

1696 ナシュワーク砦の戦い

1696 シグネクト地峡奇襲

1689 ラシーヌの虐殺

1690 ケベックの戦い

1690 シュイラーの遠征

1691 ラプレリーの戦い

1701 偉大な平和条約

1689 ペマキッド包囲戦@

1690 サーモンフォールズ襲撃

1692 ウェルズの襲撃

1692~93 セイラム魔女裁判

1694 オイスター川の虐殺

1696 ペマキッド包囲戦A

1690 スケネクタディの虐殺

1690 ライスラーの遠征頓挫

1696 オノンダガ族村落襲撃

===== 英仏蘭西の北米植民地 =====

 大半は第132号で一度ご説明した内容ですが、時が経ちましたので、再び17世紀の北米の歴史を植民地ごとに比較・概観してみましょう。植民地時代の歴史は、人口の規模を聞かずにストーリーだけ聞くと、全体像を誤解しがちですからご注意ください。1620年までに、カナダではアカディア・カナダ(セントローレンス川)・ニューファンドランドの3植民地と、アメリカではバージニア・ニューイングランドの2植民地ができましたが、全植民地を合わせても北米植民者の人口は千人にも満たない規模でした。

 1640年にはバージニアとニューイングランドで人口が10万人台に乗り、新しい植民地の中でもオランダのニューネーデルラント植民地(後のニューヨーク)で千人台を数えるようになっても、カナダの入植者は全体でも数百人規模に止まっていました。カナダ入植が活発化したのは1663年にルイ14世が植民地を直轄領としてからで、英仏植民地の対立が始まったのもその後しばらくしてからでしたが、英仏の人口差は既に約15倍に達していました。

 インディアン人口について信頼度の高い数値はありませんが、一例にニューイングランドでは、1620年に8万人いたインディアンが1640年には2~3万人に減り、さらに1660年には1万人近くまで減ったという説があります。全米いずれの地域においても例外なく、インディアンは白人との抗争に先立ち、ヨーロッパから持ち込まれた天然痘などの伝染病に感染して、急速に人口を減少させています。

 下の地図は、1702年時点の北米と西インド諸島における英仏西3国の勢力図です。その下の表には各国の植民地を地域ごとに区分して、それぞれの特色と設立年や人口の推移をまとめました。

18世紀初頭の北米・英仏西植民地 (⇒拡大)

 アメリカ独立戦争(1775∼83年)までの植民地の人口推移

植民地

特色

設立

人口推移(単位:千人)

1620

1640

1660

1680

1700

1720

1740

1760

1780

現カナダ・ミシシッピー川沿岸

(英)ニューファンドランド

漁業基地

1610~

0.1

?

?

1.8

?

?

6.0

?

10.2

(英)ハドソン湾

毛皮交易

1670~

(仏)アカディア

イエズス会

1604~

0.1

?

?

0.5

?

?

18.0

4.2

30.0

(仏)カナダ

毛皮交易

1608~

0.1

0.2

3.2

9.7

15.4

23.0

40.0

70.0

90.0

(仏)ルイジアナ

クレオール人

1699~

 

 

0.2

10.2

58.0

74.2

120.0

大西洋岸(アメリカ独立13植民地)

(英)ニューイングランド

清教徒移民

1620~

0.1

13.7

33.2

68.5

92.8

170.9

289.7

449.6

712.8

(英)ニューヨーク・ニュージャージー

保守・リベラル

1614~

1.9

4.9

13.2

33.1

66.7

115.1

210.9

350.1

(英)ペンシルバニア・デラウェア

信教の自由

1681~

0.5

1.7

20.5

36.4

105.5

217.0

372.8

(英)メリーランド

カトリック

1634~

0.5

8.4

17.9

29.6

66.1

116.1

162.3

245.5

(英)バージニア

開拓移民

1607~

0.4

10.4

27.0

43.6

58.6

87.8

180.4

339.7

583.0

(英)カロライナ

奴隷制農場

1663~

1.0

6.6

16.4

38.3

98.8

214.1

516.2

 

 

0.5

26.6

75.1

151.5

250.9

466.2

905.6

1593.6

2780.4

現アメリカ南部・カリブ海

(西)フロリダ

軍事拠点

1565~

(西)ニューメキシコ

先住民支配

1598~

(英)西インド諸島

奴隷制農場

1627~

?

?

?

?

121.0

?

?

?

?

(注1) 人口には黒人を含むが、インディアンは含まない。後にアメリカとして独立するイギリス13植民地の人口は米国国勢調査局(Census)の数字だが、その他の数字の出所はマチマチで、年代も20年ごとの区切りになるべく近いものを採用したので精度は低い。

(注2) ニューヨーク・ニュージャージー・ペンシルバニア・デラウェアの4植民地は一括して中部植民地と呼ばれるが、ニューヨーク・ニュージャージーとペンシルバニア・デラウェアは性格的に少し違うので便宜的に二つに分けた。

(注3) 南部3植民地も、バージニア・メリーランド・カロライナを別々にした。18世紀にはカロライナが南北に分かれ、さらにスペイン領フロリダとの緩衝地帯としてジョージアが設けられ、5植民地となる。1780年のケンタッキーとテネシーの人口は、それぞれバージニアとカロライナに含まれている。

(注4) ニューイングランドの植民地はお互いに文化的に似ているので分けなかった。ピルグリムファーザーズが設立したプリマス植民地はマサチューセッツ植民地に吸収されたので、アメリカ独立戦争の時点ではロードアイランド、コネチカット、ニューハンプシャーと合わせ4植民地…中部4植民地、南部5植民地を加えて独立13州。バーモント植民地とメーン植民地は独立13州には含まれないが、人口はニューイングランドに含まれている。

現カナダ・ミシシッピー川沿岸

1. アカディア仏植民地(カナダ沿海部…ノバスコシア・ニューブランズウィック・プリンスエドワード島)

一般人の入植は進まず、17世紀中にスコットランド、イングランド、オランダに相次いで占領された。イエズス会宣教師がインディアンをカトリックに教化し、繰返しニューイングランド英植民地を襲わせた。

2. カナダ仏植民地(セントローレンス川流域…ケベック・オンタリオ)

ビーバーの毛皮交易で発展したフランスの主力植民地。セントローレンス川流域のインディアンと同盟を結び、17世紀を通じ、ハドソン川流域からオンタリオ湖南岸を本拠とするインディアン部族連合イロコイ連邦との戦争を続けた。

3. ハドソン湾英植民地

ハドソン湾会社が北極海航路を開拓、カナダ内陸のインディアンとの交易所を設置した。陸上ルートで内陸のインディアンと交易するカナダ仏植民地の北西会社と覇を競った。その後19世紀には、アメリカのオレゴントレイルと競い、西海岸北部と交易するカナダ西部開拓ルートの起点となる。

4. ニューファンドランド英植民地

沖合のグランドバンク(浅碓)で獲れるタラを保存加工する漁業基地。英西戦争でスペイン・ポルトガルの漁民を一掃しイギリスが領有したが、フランスも植民地を建設し領有権を争った。

5. ルイジアナ仏植民地

ミシガン湖からイリノイ川・ミシシッピー川を下りメキシコ湾岸に出るルートを開拓し、要所に砦を設けた。その後18世紀には西アフリカやカリブ海の仏植民地から混血のクレオール人や、イギリスに追放されたアカディアのフランス系移民が、ミシシッピー川河口付近を中心に入植した。

大西洋岸(アメリカ独立13植民地)

1. バージニア英南部植民地

イギリスでは16世紀に国内外で毛織物の需要が増え、地主貴族が農地の囲いこみで牧羊地を拡大。農地を失った農民らが、バージニア会社で年季奉公を終え自営農となった。また、長子相続で家を出た地主貴族の次男・三男らが植民地の指導層となった。初期の宗教はイングランド国教で、本国の清教徒革命時には心情的に王党派(騎士党)を支持する人々が多数を占めた。

2. ニューヨーク・ニュージャージー英中部植民地

最初に植民地を築いたオランダの主目的は毛皮交易だったが、経済発展のためにハドソン川河岸の土地を荘園領主らに与える一方で、ハドソン川河口部でオランダやワロン地方(現ベルギー南部)の新教徒や、さらにはユダヤ移民まで受け入れる寛容な移民政策を進めた。そのためイギリス領となってからも、封建主義勢力とリベラル勢力が対立する不穏当な状況が続いた。

3. ニューイングランド英植民地(マサチューセッツ・コネチカット・ロードアイランド・ニューハンプシャー)

エリザベス女王没後は、清教徒革命の時期を除き名誉革命まで清教徒を弾圧する国王が続いたため、富裕層も含む清教徒が数多く移民した。ピルグリムファーザーズの入植から16年でハーバード大学を設立するほど教育熱心。会衆派教会が支配的で、同じ清教徒でもバプティストやクエーカー、カトリック教徒やユダヤ人は信教の自由が保証されるロードアイランド植民地に集まった。

4. メリーランド英南部植民地

冬の厳しいニューファンドランド島に入植したカルバート家(ボルチモア卿)が、親カトリックのチャールズ1世に願い出て下賜されたカトリック教徒のための新天地。宗教を除き、南隣のバージニアと姉妹同然の植民地。

5. カロライナ英南部植民地

バルバドスから二次移民した人々が北米に黒人奴隷とプランテーション農業を移植し、米作で成功した。その後18世紀末のホイットニーの綿繰り機の発明を契機に、綿花のプランテーション農業が南部一帯に拡大することになる。

6. ペンシルバニア・デラウェア英中部植民地

清教徒革命でも絶対平和主義の立場から中立を守り、王党派からも議会派からも排斥されたクエーカー教徒のウィリアム・ペンが、借金のかたにチャールズ2世から勅許を得て開設した植民地。クエーカーの友愛精神に基づき信教の自由が保証され、イギリス以外の国からアーミッシュら宗教難民も率先して受け入れた。

現アメリカ南部・カリブ海

1. フロリダ・スペイン植民地

スペイン領フロリダにフランスの新教徒が16世紀に入植を試み、これをスペインが阻止しあわてて設けた北米初の恒久植民地。中南米やカリブ海のスペイン領防衛が主目的の軍事拠点だった。

2. ニューメキシコ・スペイン植民地

16世紀末にプエブロ族の集落群を征服。キリスト教に改宗させようと再三試みるも成功せず、インディアンは反抗を繰り返した。インディアン社会に、ウマを持ち込んだ。

3. 西インド諸島英植民地(バルバドス・ジャマイカほか)

スペイン領西インド諸島では疫病と酷使によって先住民の数が減り、ポルトガルの奴隷船で西アフリカから運ばれた黒人を働かせ、サトウキビが栽培されていた。イギリスやフランス領の西インド諸島も、スぺインやポルトガルのプランテーション(大農場)経営法を踏襲して経済発展を遂げた。