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2018年4月15日 (第140号)

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社 会

歴 史

 オランダ史B-3 16世紀前半は少し平和なアントワープ黄金時代

 外国商人や亡命新教徒・ユダヤ人が育てた国際都市

 1493年にフリードリヒ3世が亡くなり、マクシミリアン1世は神聖ローマ皇帝に即位します。1494年には、イタリアのミラノ公国の公女と結婚しました。西欧の北の商工業地帯ネーデルラント(低地諸国)をあきらめたフランスは、同じ年に西欧の南の商工業地帯イタリアに侵攻し、スペインと衝突が起きます。

 その過程で神聖ローマ皇帝のハプスブルク家とスペイン王家が反仏同盟を組み、互いの王位・公位継承者と公女・王女の2組の婚姻が成立しますが、スペインの王位継承者が亡くなり、代位の継承者も相次いで他界し、マクシミリアン1世の孫のカール5世が、オーストリアとネーデルラント(低地諸国)に加え、母方からスペインと世界中に広がる植民地を相続します。

 そのあたりの詳しい話は次号以降に回しますが、イタリア戦争(1494~1559年)の間、ネーデルラント(低地諸国)は久しぶりに国際紛争の焦点から外れ、政治的には比較的平穏な時期が続きました。

===== アントワープの繁栄 =====

 経済の中心は、ブルッヘやヘントなど毛織物業で栄えたフランドル伯領の諸都市から、スヘルデ川東岸でブラバント公領のアントワープに移りました。といっても、ブラバント公領もフラマン語(オランダ語)を話す地域で、広義ではフランドル地方に含まれます。アントワープは、フランスがまだガリアと呼ばれていたローマ時代に、スヘルデ川の周辺で最初にできた集落で、ライン川の東からローマ領内に移り住んだフランク王国の先祖が砦を築いた由緒ある土地柄でした。

 15世紀末には外国商館がブルッヘからアントワープへと移転を始め、1501年に初めてのポルトガル船がコショーやシナモンなどの香辛料などを積んで到来しました。北イタリアのベネチアやジェノバの経済は、各地に赴く地元商人の力で維持されていましたが、アントワープの繁栄は世界各地からやって来る商人たちが支え、その結果、コスモポリタン的な文化の多様性が生まれ出版業が盛んになりました。

Bruges (Brugge)  Ghent (Gent)  Antwerp Brussels

 宗教的にも寛容で、ユダヤ教正統派の大規模コミュニティが形成されたほか、イベリア半島でマラーノと呼ばれ排斥されたユダヤ系キリスト教徒の亡命先や、各地で迫害を受けたプロテスタント諸派の拠点となります。フランドルからの移住者は商業や毛織物業の成長に寄与し、ユダヤ人はダイヤの研磨産業や金融業を発展させました。 

 この間、ハプスブルク家とフランスの抗争…イタリア戦争(1494~1559年)の影響で国際通商が滞ったり、スペインの財政破綻で不況に陥った時期もありましたが、通商のみならず繊維産業や金融業も発展し、1500年に4万数千人だった人口が八十年戦争直前には10万人を越え、アルプス以北のヨーロッパではパリに次ぐ第二位の都市になりました。

 ちなみに1575年の世界各地の推定都市人口は、首位が北京の70.6万人、2位がイスタンブールの68万人、3位がわが日本の京都で30万人と推定されています。ヨーロッパからは人口22万人のパリが6位、以下7位ナポリ21.5万人、14位ベネチア15.7万人、22位ロンドン11.2万人で、23位にアントワープ11万人がランクインしています。

 さらに同じWikipediaの資料で1650年には、首位がイスタンブールと変わって70万人、続いて2位江戸50万人、3位北京47万人、4位パリ45.5万人、5位ロンドン41万人、6位京都39万人、少し空いて9位に大阪34.6万人、13位ナポリ26.5万人、17位リスボン17万人、18位アムステルダム16.5万人、22位ベネチア13.4万人、23位パレルモ(シチリア)13.2万人、25位マドリッド12.5万人。

 アントワープは1585年にスペインに降伏して以来、過半の市民が他国に流出し、人口10万人台を回復するには19世紀後半まで約300年近く待たなければなりませんでした。

===== 年表 =====

 15世紀後半のネーデルラント(低地諸国)を中心とする年表です。

フランドル領主 列強君主

軍事状況とブルゴーニュの政治状況(獲得領喪失領)

1419~1467

フィリップ善良公

 (親英→親仏)

 百年戦争終結

 薔薇戦争(1次内乱)

 →ヨーク朝

 プラグリーの乱

 公益同盟

 東ローマ帝国滅亡

 

(墺・王)アルブレヒト2世

(墺・皇)フリードリヒ3世

〇百年戦争でブルゴーニュは1431年にフランスと休戦、ピカルディを獲得した。1439年にはイングランドとも休戦して通商を再開。1441年にルクセンブルクの抵当権を入手、リエージュ司教に甥を就任させ、ネーデルラント(低地諸国)全域を統一した。

仏シャルル7世は1439年に三部会で徴兵と戦費徴税を決める。中央集権化を嫌う貴族たちが王太子ルイ(後の11世)を担ぎプラグリーの乱を起こすが、これを平定。ブルボン公を頂点に国王軍を再編成し、1453年にはイングランドから全土を奪還。百年戦争は自然消滅の形で終る。

仏国内領を喪失し英ヘンリー6世の精神が錯乱。エドワード3世の孫のヨーク公が摂政となり、対仏和平派の側近を排除。しかし、ヘンリー6世が快復しヨーク公と対立、1455年に第一次内乱が勃発。ヨーク公自身は戦死したが、ランカスター朝を倒し1461年に息子エドワード(4世)が英王に即位。ヨーク朝が始まる。

オーストリア公アルブレヒト2世がローマ王(戴冠前の皇帝)に選出され、100余年ぶりにハプスブルク家の世襲が再開。1439年に領国ハンガリーをオスマントルコから守る戦闘中に病死。後を継いだフリードリヒ3世は1452年に神聖ローマ皇帝を戴冠。しかし、1453年にオスマントルコが東ローマ帝国を滅ぼし、無策の領主に不安を抱いたハンガリー貴族は、1458年に身内から王を選出した。

〇1461年にルイ11世が即位し中央集権化を進め、ブルゴーニュ公国からもピカルディを買い戻した。仏王と対立する公太子シャルル(後の突進公)は、1465年に王弟のベリー公を立て不満貴族の公益同盟を組んで戦い、ピカルディを奪還した

(西)カスティージャ王家

アラゴン王家

(英)ヘンリー6世

エドワード4世

(仏)シャルル7世勝利王

ルイ11世慎重王

1467∼1477

シャルル突進公(反仏)

 薔薇戦争(2次内乱)

 スペイン連合王国

 ブルゴーニュ戦争

(墺・皇)フリードリヒ3世

〇シャルル突進公が公位継承。1469年にハプスブルク(チロルの分家)から買戻し条件付きで、上アルザスと周辺を購入。また、フランスが裏で手を引くリエージュ司教領の反乱や仏軍のピカルディ侵攻も武力で押さえ込み、1472年にはゲルデレン公領も買い取る。

〇ブルゴーニュ戦争で、1475年にはロレーヌを占領。しかし、スイスで続けて大敗し1477年にナンシーの戦いで戦死。

1469年に第一次内乱の功労者が寝返りフランスと同盟、ランカスター朝のヘンリー6世が一時的に復位。ネーデルラント(低地諸国)に逃げたヨーク朝のエドワード4世は、ブルゴーニュのシャルル突進公と反仏同盟を組み、1471年にイングランドに再上陸して復位

1469年に結婚し、アラゴン王フェルナンド2世とカスティージャ女王イサベル1世が同君連合のスペイン王国が誕生。

(西)カトリック両王

(カスティージャ)イサベル1世

(アラゴン)フェルナンド2世

(英)エドワード4世

(仏)ルイ11世慎重王

1477∼1482

マリー女公(反仏)

(墺・皇)フリードリヒ3世

〇1477年、シャルル突進公の死により実効支配していたロレーヌ上アルザス周辺を喪失。公女マリーが諸都市の自治拡大の要求を受け入れ、公位を継承。フランスがブルゴーニュ公国に侵攻するも、マリーは神聖ローマ帝国に助けを求め、皇太子マクシミリアンと結婚。フランスは占領地を返還。

1477年にオーストリア‐ハンガリー戦争勃発。

(西)カトリック両王

(カスティージャ)イサベル1世

(アラゴン)フェルナンド2世

(英)エドワード4世

(仏)ルイ11世慎重王

1482∼1506

フィリップ美公(親仏)

 薔薇戦争(3次内乱)

 →テューダー朝

 コロンブス新大陸発見

(墺・皇)フリードリヒ3世

マクシミリアン摂政期(1482∼1494)

〇1482年にマリー女公が落馬事故で死去。父マクシミリアンの摂政で幼いフィリップ美公が後を継ぐが、公女マルグリットは仏王太子シャルル(後の8世)と婚約させられ、持参金としてブルゴーニュ公・伯領ピカルディ・アルトワを割譲。

イングランドはでは薔薇戦争が終息。ランカスター派のヘンリー7世がヨーク朝の王女と結婚して、テューダー朝が始まる。

〇マクシミリアンはブラッセルやアントワープ中心に産業振興を図る。フランスの支援を受けたフランドルが、1485年に反乱を起こし一時マクシミリアンを拘束。フランドルと神聖ローマ領内のネーデルラント(低地諸国)諸邦と亀裂が進む。

1489年からマクシミリアンはネーデルラント(低地諸国)を離れ、インスブルックを拠点に南ドイツの諸紛争を処理。アウクスブルクのフッガー家にチロルの銀山の採掘権を付与。1490年にオーストリアからハンガリー軍を一掃。

1492年にイサベル1世の命でジェノバ人コロンブスが新大陸発見。

〇仏シャルル8世がマクシミリアンの娘で王妃のマルグリットと離婚、しかも婚約中のブルターニュ公女を奪って結婚したことから、フランスと開戦。次いで1492年にはイングランド海軍の支援を得てブルッヘを海上封鎖し、反乱も鎮圧。1493年にフランスはマルグリットの持参金のうちブルゴーニュ伯領ピカルディ・アルトワを返還。実状に合わせて仏独国境を引き直し、フランドルは神聖ローマ帝国領となる。

1493年にフリードリヒ3世が死去。マクシミリアン1世が神聖ローマ皇帝に即位。

(西)カトリック両王

(カスティージャ)イサベル1世

                  狂女フアナ

(アラゴン)フェルナンド2世

(英)リチャード3世

ヘンリー7世

(仏)シャルル8世温厚王

ルイ12世