アメリカの 「社会と歴史」・e-ガイド(印刷ページ

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アメリカ移民の歴史

★ニューイングランド ★南部植民地とフロンティア ★中部植民地 ★スペインとフランスの植民地

★カトリック系アイルランド移民とドイツ移民 ★南欧・東欧と中国人の移民 ★メキシコ人の不法移民


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 アメリカの社会と文化を理解するには、各地住民の人種や先祖の系統を知らずに語ることはできません。そこで、あらためて全米のアメリカ人の先祖別分布図を眺めてみると、そこには、17世紀以降にヨーロッパ各地で起きた移民ブームの波と深く関係していることが分かります。

 新興団地に子供が生まれたばかりの若夫婦が自然に集まり、やがて同世代の中高年の夫婦が住む団地に成熟していくようなもので、各地から渡米してきた移民は、その時代の最前線のフォロンティアや新しい産業が興って仕事に困らない地域を目指したに違いありません。


ニューイングランド


1800年頃までの白人居住地

 独立戦争(1775〜83年)が終わって間もない1790年に行われた国勢調査によれば、アメリカの人口は約315万人でした。それまでにアメリカに移民してきた人々の数は約59万人と推計されており、少なくとも8割以上はアメリカ生まれのアメリカ人だったわけです。

1790年当時の人種構成

 イングランド系が約半分、アイルランド系やスコットランド系を含めると約3分の2が連合王国(United Kingdom)のイギリス出身者でした。

 アイルランドやスコットランドは、イングランドと民族系統や文化が違います。信仰するキリスト教の宗派も違うのですが、当時は統一君主を押し付けられ、イングランドに実質的に植民地化されていました(⇒アイルランドとイギリスの歴史)。

 ニューイングランドには、1630年代をピークに約2万人の清教徒が、主にイングランド東部からイギリス国教会の束縛を逃れて移民しました。1641年に本国で清教徒革命が始まり、その後の移民は激減しましたが、多産と少死で1790年までに人口は90万人に増加しました。

 マサチューセッツ植民地は、クエーカー教徒をはじめ他宗派を排斥する清教徒非分離派が支配していたために、他宗派の人々はコネチカットやロードアイランドに移住していきました。


南部植民地とフロンティア


 初期のバージニアは、マラリアと黄熱病やインディアンとの抗争で落命する人々も多い過酷な植民地でしたが、主にロンドンや中部イングランド地方から堅調な移民の流入が続き、人口は増えていきます。南部植民地の人種別人口はイギリス系が55%でドイツ系が7%、それに奴隷として連れて来られた黒人が38%と推計されています。奴隷貿易は1775年までで尻すぼみになり、1808年には非合法化されました。

 南部植民地では、イギリス国教会の下でタバコのプランテーション農業が発展しました。サウスカロライナに移民したフランス人は、宗教亡命した先進的商工業者の一団で、数は少ないのですが、後のディープサウスの文化形成に強い影響を及ぼすことになります。

 当時奥地と呼ばれていたカロライナやバージニアのアパラチア山麓には、18世紀に25万とも40万ともいわれる長老派プロテスタントの人々が、北部イングランドとスコットランドや北アイルランドから移民。一部は、アパラチア山脈の谷間を抜けてケンタッキーやテネシーに入植して行きました。

 カロライナ奥地の開拓者は、国教会系の植民地政府に差別を受けて恨みを持っていました。独立戦争では、開拓者が愛国派と王党派に分かれ南部戦線は苦境に陥りましたが、テネシーの愛国派民兵の活躍でアメリカの勝利が決定付けられました。


中部植民地


New Nederland

New Sweden

 ペンシルバニア植民地を開いたのは、クエーカー教徒のウィリアム・ペンでした。クエーカーの信条は平和・平等・質素・誠実ですが、キリスト教の他宗派との差異が大きくて異端視され、イギリスでもニューイングランド植民地でもひどい迫害を受けていた時代のことです。ペンが「信仰の自由」を掲げてヨーロッパ各地から入植者を募った結果、ペンシルバニアにはアーミッシュやカトリックのドイツ系移民まで、様々な出自の移民が集まりました。

 ハドソン川下流のニューヨーク植民地は旧オランダ領のニューネーデルラントでした。現在のフィラデルフィア付近からデラウェア川河口にかけては旧スウェーデン領ニュースウェーデンで、ニュージャージーやデラウェアには、オランダやスカンジナビア系の移民が多数植民していました。

 ニューヨークは、後にエリー運河で五大湖と結ばれ国際商業都市として発展していきますが、中部植民地は既に当時から国際色豊かな商業の中心地だったのです。ウィリアム・ペンが古代ギリシャ語で「友愛」と名づけたフィラデルフィアは、18世紀を通じてアメリカ最大の都市でした。合衆国の前身となる大陸会議はフィラデルフィアで開催され、信仰の自由や平等を保障したペンシルバニア憲法は合衆国憲法のベースになりました。


スペインとフランスの植民地


 17世紀初頭には、ニューメキシコのサンタフェやテキサスのサンアントニオにスペイン植民地が築かれました。カナダにはフランスの植民地が築かれ、ミシガン北部からミシシッピー川河口に至るフランス領ルイジアナに点々と砦が設けられました。現ルイジアナ州沿岸部には、フレンチ‐インディアン戦争の末にイギリスに立ち退きを命じられたアケーディア地方(現在のメーン州東部とカナダのノバスコシア州)のフランス系住民の一部が移住し、ケイジャン(発音ケージュン)と呼ばれる特殊な文化が生まれました。


カトリック系アイルランド移民とドイツ系移民


 その後は移民の少ない時代が続き、逆に、王党派7万5千人と、より豊かな農地を求めるドイツ系移民の一部が、アッパーカナダ(現オンタリオ州)に移住しました。

 しかし、18世紀以降に移民が増えた背景には、医療衛生の進歩によってもたらされたヨーロッパの人口爆発があります。1830年頃から、アイルランド系とドイツ系やイギリス系の移民が右肩上がりで増えてきました。

1872年 カトリック系アイルランド移民

1872年 ドイツ移民

 当時のアメリカは、カトリックのボルチモア卿が開いたメリーランド州を除いて、ほぼ完全なプロテスタントの国でした。カトリック系のアイルランド移民は社会的に差別され低賃金労働に甘んじながら、19世紀のアメリカ産業の発展を底辺で支えます。1845〜49年にはアイルランドで大飢饉があり、アイルランド移民はピークを迎えます。

 1848年にヨーロッパ各地で起きた革命は不完全燃焼に終わり、ドイツからは失意のインテリや活動家がアメリカに逃げてきました。2010〜11年に中東各国で起きた「アラブの春」の大先輩で、「諸国民の春」と呼ばれた民主主義革命です。

 南北戦争では、北軍兵力の23.4%に当たる51万6千人が移民で、うちドイツ系21万6千人の中には「48年亡命組」が数多く参加していました。その後もドイツの戦乱は絶え間なく、多くの農民が難民となりアメリカに押し寄せて来ました。その数、第一次大戦の頃までに総数6百万人近く、広く中西部を中心に定住して、今では、アメリカ人の先祖出自調査で全体の17%=最多数派を誇るまでになったのです。

 アイルランド移民も北軍に14万人が従軍し、犠牲をいとわない勇敢な戦いぶりで北軍の勝利に貢献し、アイルランド旅団の名前をとどろかせました。しかし、南北戦争の終盤に徴兵をめぐって不満を爆発させ、ニューヨークでアメリカ史上最悪の暴動を起こしたのもアイルランド移民でした。当時の制度では、金さえ払えば富裕層は徴兵を免れることができました。自由黒人とアイルランド移民は低賃金労働の仕事を奪い合うライバルでしたが、黒人には市民権がないので徴兵も免除されていました。


南欧・東欧と中国人の移民


1911年にニューヨークの入国管理に着いた移民

 1870年以降、大西洋に大型客船が運航して渡航費用も大幅に安く済むようになるにつれ、南欧や東欧からの移民が増えてきます。しかし、アメリカの国勢調査で「フロンティア消滅」が確認されたのが1890年…昔のように簡単に無償の土地を得ることができなくなった新参の移民は、大都市の中に出身地別の「居住区」を作って住みつきました。

 貧困に苦しむ南イタリアからも移民が押しかけ、各地でイタリア人街がスラム化しました。シシリー島出身者の中からマフィアも誕生します。3人に1人は「渡り鳥」と呼ばれる稼ぐだけ稼いで帰国するつもりの一時的な移民でしたが、1914年に始まった第一次大戦で足止めをくらい、一部はそのまま永住することになりました。

 同じ頃にポーランドなど東欧からの移民も増えていました。当時のポーランド移民の数は、国がプロシャとオーストリアやロシアに分割されていたために正確な数さえつかめません。多くがシカゴや五大湖周辺の都市に集団で定住していきました。

 一方、西海岸では、その頃、1869年に開通した大陸横断鉄道をはじめとする土木工事に中国系の移民労働者が便利に使われていました。ところが、鉄道建設ブームが去ると、それまで陰に隠れていた白人労働者との競合が一挙に表面化し、1882年には中国人排斥法(Chinese Exclusion Act)で中国系の新たな移民が全面的に禁止されてしまいます。

 移民排斥の世論は、反中国人には留まらず、次第に高まっていきました。そもそも(奴隷として連れてこられた黒人とカトリックを信じるアイルランド人を除き)アメリカ人といえば白人プロテスタント信者と決まっていたはずが、イタリアや東欧のカトリック信者やアジア人、ユダヤ人、ロシア人が移民してくるようになって、文化が乱れ、病気や犯罪も増えているという主張です。1921年に緊急移民制限法(Emmergency Quata Act)、1924年に移民法(Immigration Act)が成立して、以降のアメリカは自由に移民できる国の看板を下ろしたのです。

 黒人は南北戦争で奴隷制から解放されたはずでしたが、南部諸州の政府は、実は、前にも増して反動的な人種隔離政策を進めていきました。その結果、1916年から30年にかけて約7百万人の黒人が、南部から北東部や中西部、カリフォルニアの都市部に移住…「黒人の民族大移動(Great Migration)」と呼ばれています。


メキシコ人の不法移民


2008年現在 

2050年予想 

 約20年は移民の少ない時期が続きましたが、第二次世界大戦が終わってアメリカ経済が一段と活力を増すと、国境のリオグランデ川を泳ぎ渡ったりしてメキシコから不法移民(wetback=背中がぬれている人)が殺到するようになります。1954年には既に百万人を越える不法移民が国境沿いの諸州で働いていると推定され、この年から大規模な取締りが始まりました。

 その後も、皆さんよくご存知のように、メキシコ人労働者は全米で増加を続け、現在では、ヒスパニックが黒人を越えるマイノリティー(少数民族)最大の勢力になってきています。アメリカの国勢調査局の見通しでは、白人の割合は2042年に半数を割り込み、2050年には右の円グラフに示されるような人口構成になるものと推定しています。