運河の時代(19世紀前半) ★エリー運河 ★五大湖とミシシッピー川が連結 ★当時の内陸水運地図 エリー運河
1817年にハドソン川とエリー湖を結ぶエリー運河が開通、ニューヨークと五大湖が水路で結ばれるようになると19世紀の半ばにかけて運河建設の大ブームが起きます。時を合わせて、アメリカの産業革命の幕が開きます。アメリカの重工業は、バッファローやロチェスター、クリーブランドなど五大湖周辺の諸都市で発展していきます。 エリー運河のコースは偶然決まったのではありません。エリー運河は、ニューヨークのマンハッタン島からハドソン川を150マイル(240q)北に上るアルバニー付近から直角に折れてオンタリオ湖の南をシラキュース-ロチェスター-バッファローと西進しますが、エリー運河のルートには、アパラチア山脈を横切る(ハドソン川の支流)モホーク川の谷があり当時の土木技術の水準でも十分切り開くことができたからです。
地史をさかのぼると、エリー運河のコースは1万3千年も前に決定していたのです。当時は氷河期の末期で、現在のカナダのほぼ全土を覆っていた氷河が少し融けだして五大湖ができかけていました。 その頃、現セントローレンス川の流域はまだ凍り付いていて、古オンタリオ湖の水がモホーク川を通じて大西洋に注いでいた時期があったのものと考えられています。 五大湖とミシシッピー川が連結
オハイオ州は、2本の大運河で、いち早く五大湖とオハイオ川を結び付けました。ニューヨーク港からミシシッピー川河口のニューオリンズ港までが内陸の水路でつながったのです。ミネソタやウィスコンシンの鉄鉱石も、アパラチア山脈の石炭も、安く早く運ぶことができるようになりました。シンシナティに集積した農畜産物を、ニューヨークからヨーロッパに輸出することもできるようになりました。 運河全盛の時代は19世紀の前半で終わり、代わりに鉄道が運輸交通の主役に登場してきます。ロバに牽引されて運河をのどかに進む川舟(はしけ)より汽車の方が速さや力で優れていたからですが、運河には冬季に凍り付いてしまう弱点があったのも、衰退の原因の一つとして数えられています。 とはいえ、運河ができたルートは一般的に平坦でしたから、運河には鉄道が並行して敷設され、沿線の都市は引き続き一層の繁栄を続けることができたのです。
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