元祖ウェスト(西部フロンティア)

★暗く血塗られた地? ★荒野の道=カンバーランド峡 ★酒樽とノーザンケンタッキー

★独立戦争西部最前線ルイビル ★ウェスタンケンタッキーとインディアナ南東部 ★ケンタッキー南部とテネシー


18世紀前半の北米植民地

  イギリス領   フランス領   スペイン領

 ケンタッキーの各地の様子をご紹介するには「急がば回れ」…少しアメリカの西部開拓史をひもといてご説明しましょう。

 アパラチア山脈の西は、1754〜63年のフレンチ-インディアン戦争でイギリス(アメリカ植民地)に負けるまではフランスの領土でした。戦後の条約でイギリスがミシシッピー川の東のフランス領を獲得したのが、西部フロンティア開拓史の序章です。当時のフランス軍の最前線だったのがオハイオ川上流の現ピッツバーグの砦でした。

 イギリス領になったといっても単なる白人の英仏両国間の約束で、インディアンが土地を譲ってくれたわけではありません。イギリス本国はインディアンとのトラブルを避けるために入植を規制しましたが、植民地アメリカの人々が新しい西部の土地を求めてアパラチア山脈を越えていこうとする動きは止められません。

=====≪暗く血塗られた地?≫=====

 インディアンは遊牧民ですから、当時のケンタッキーは、南北から複数の部族が出入りする狩猟地でした。1768年にイギリス政府が北東部のイロコイ族からオハイオ川とカンバーランド川の間の土地(ケンタッキーとウェストバージニア)を購入しますが、オハイオのショーニー族は取引を認めません。しかし、1773〜74年に開拓者たちと戦って敗れてしまいます。さらに、1775年には、一部の開拓者が、南部のチェロキー族から、あらためてケンタッキー川とカンバーランド川の間の土地を購入します。

初期の西部開拓ルート(⇒クリックで拡大) 

 ところが、この取引にも反対する一派がいて、折からの独立戦争でイギリス側に立ち、たびたび開拓者を襲いました。

 この時にインディアンのリーダーが残した「ここは暗く血塗られた地(Dark and Bloody Ground)になるだろう」という捨てゼリフがケンタッキーの語源だという説が広く流布していますが、実は、インディアン語には、そのような縁起の悪い意味はないのだそうです。一部のイロコイ族の言葉「草原」に由来するという説の方が素直に信用できます。

=====≪荒野の道 =カンバーランド峡 ≫=====

荒野の道

 アパラチア山脈の西の土地は、同じ緯度の大西洋岸の州に帰属する約束でしたから、ケンタッキーはバージニア州の一部でした。山の向こうに緑豊かな土地があるという噂を聞いた人々は、谷間伝いにグレートワゴンロード(Great Wagon Road=大いなる幌馬車の道)を南下し、バージニアとケンタッキー、テネシー3州の境界にあるカンバーランド峡を幌馬車を越えて西部フロンティアに旅立っていきました。ダニエル・ブーンが切り開いたこの道は、人々からウィルダネスロード(Wilderness Road=荒野の道)と呼ばれるようになります。

 独立戦争の緒戦レキシントン-コンコードの戦いで植民地軍勝利の報が入り、ブルーグラス地方の盆地にできた集落がレキシントンと命名されたのは1975年のことでした。バージニアからウマやタバコが持ち込まれ、ブルーグラス地方の産業となります。

 レキシントンは、19世紀の半ばまでは、アメリカの西部社会の中心で、北部と南部の融和に貢献した大政治家ヘンリー・クレーやリンカーン大統領夫人の出身地です。

=====≪酒樽とノーザンケンタッキー ≫=====

Maysville(1821年)

シンシナティの豚肉加工(⇒クリックで拡大)

仏人ラサールの探検(⇒クリックで拡大)

  第1回   第2回   第3回

 けもの道(Buffalo Trace)を北にたどって行き着いたオハイオ川の河岸にはライムストーン(現在のメイズビル=Maysville)という港町ができました。ブルーグラス地方で生産され、オハイオ川からミシシッピー川を下って出荷されるウィスキーの樽には、船積地の当時のカウンティー名「バーボン」の刻印があったのだと言われています。1796年には、対岸のオハイオ州を通過して現ウェストバージニアのウィーリングからピッツバーグ方面に抜ける道が建設されますが、この地域は期待通りに発展しませんでした。

シンシナティから見るマイアミ-エリー運河(1841年)

 1788年には、リッキング川河口の対岸オハイオ州側にシンシナティが建設され独立戦争の退役軍人たちが周辺に土地を与えられて入植します。1817年には蒸気船が就航して、塩漬けの豚肉が出荷されるようになりました。

 1840年にはマイアミ-エリー運河ができてオハイオ川と五大湖をつなぐ内陸水運の要衝となったのです。ノーザンケンタッキーの中心も、次第にシンシナティ付近に移っていきます。

=====≪独立戦争西部最前線ルイビル≫=====

ビンセンス(Vincennes)への行軍

 1669年にオハイオ川を船で下ったフランス人の探検家ラサールは、現ルイビルの滝(Falls of Ohio)で進めなくなり引き返しました。ルイビルは水運的には要害でしたが、浅瀬を利用してバッファローが川を渡ることもできた陸上交通には便利な場所だったようです。

 ルイビルに拠点を設けたジョージ・ロジャース・クラークは、1778〜79年にかけ、現在のイリノイとインディアナ両州にあったイギリスの砦を攻略し、独立戦争の西部戦線の英雄となりました。1803〜06年にルイスと共に探検隊を率いてセントルイスから太平洋に達するオレゴン街道(Oregon Trail)を発見したウィリアム・クラークは、ジョージの弟です。

 ルイビルの河航の障害は、1830年に運河ができたことで解消しました。1850年に設立されたルイビル&ナッシュビル鉄道は、北部と南部一円を結ぶ経済の大動脈で、1982年にCSXに買収されるまで南北戦争と大恐慌の経済危機を乗り越え132年間存続しました。1988年には国際宅配便のUPSがルイビル空港をハブとして航空会社を設立しました。ルイビルは相変わらずアメリカの運輸交通の要衝です。

=====≪ウェスタンケンタッキーとインディアナ南東部≫=====

トランシルバニア立憲会議

アメリカの炭田地帯(⇒クリックで拡大)

 話は少し戻ります。1775年に一部の開拓者が南部のチェロキー族から土地を購入したと書きましたが、リーダーはノースカロライナのヘンダーソンという人で、トランシルバニアという新植民地を創立する目論みでした。残念ながら、計画はバージニア政府に認められずヘンダーソンはノースカロライナに帰りますが、ケンタッキー開拓の功が認められグリーンリバーがオハイオ川に注ぎ込む周辺の土地を与えられます。

 ウェスタンケンタッキーはブルーグラス地方と違って、うっそうとした森林地帯です。この土地が関係者の手で開拓されて1797年にヘンダーソンの町が建設されました。少し遅れて1809年に設立された対岸のエバンズビル(インディアナ州)を中心に、この地域はイリノイ・インディアナ・ケンタッキー三州地区(Illinois-Indiana-Kentucky Tri-State Area)と呼ばれています。内陸炭田地帯の南端に当り、今でも露天掘りの炭鉱を見かけることがあります。

=====≪ケンタッキー南部とテネシー≫=====

 もう少し上流のグリーンリバー流域には、独立戦争の退役兵が土地をもらって住み着いたようです。サウスセントラルケンタッキー(ボーリンググリーン周辺)からレキシントンやルイビルに出るには車で2時間たっぷりかかりますが、テネシー州ナッシュビルにはほんの1時間の距離ですから、このあたりの文化は半分以上テネシー的かもしれません。

 少し西のホプキンスビルの場合は、完全にテネシー州クラークスビルの都市圏に入っています。クラークスビルはカンバーランド川に臨む美しい港町でしたが、1942年に空挺部隊の基地ができてから人口も経済規模も倍増しました。

 基地の西には、テネシー渓谷開発公社がテネシー川とカンバーランド川をそれぞれせき止めて作った巨大なダム湖が並び周囲は保養地になっています。

 さらにその西…西をミシシッピー川、北をオハイオ川、東をテネシー川に囲まれた地域は「ジャクソン購入地(Jackson Purchase)」と呼ばれています。1818年に、ジャクソン大統領が、西部テネシーと共に、チカソー族から買い上げた土地です。この地方は、西部テネシーとの関係よりも、(まるでナイル川河口の)三角州地帯のようで「小エジプト(Little Egypt)」といわれるイリノイ州南部との関係の方がむしろ緊密かもしれません。