=====≪アメリカ史のテーマパーク≫===== GMの博物館(GM Heritage Center=非公開ながら30名以上のグループツアー可)やクライスラーの博物館(Walter P. Chrysler Museum)は、各社の名車を懐かしむ博物館ですが、ヘンリー・フォード博物館はアメリカの歴史がテーマの大パーク…フォード車を陳列しているのはほんの一角に過ぎません。 正確には、テーマパーク名は「ザ・ヘンリー・フォード」。場所はヘンリー・フォードの生地ディアボーンで、「ヘンリー・フォード博物館」と歴史村「グリーンフィールド・ビレッジ」、それに近隣の「フォード・ルージュ工場」見学の3つが1セットです。 隣の「自動車の殿堂」博物館と、ミシガン・アベニューをはさんで向かい側のミシガン大学ディアボーン校構内にある「ヘンリー・フォード屋敷(フェアレーン)」と併せ、デトロイト最大の観光スポット。ダウンタウンのルネッサンスセンターからは、高速道路で20分()です。 立派なホームページがありますが、残念ながら、アメリカ史に疎い私たち日本人には詳しすぎ。日本語のパンフレット(博物館・ビレッジ)の方は、逆に簡単すぎ。取敢えず、上と左の案内図でパークの全体像をつかみましょう。 (大英博物館やメトロポリタン博物館と違い)身近な展示品が多くお子様にも面白い所ですが、ディズニーほど楽しいわけではありませんから、1日連れ回すのは難しいかもしれません。 === ≪博物館≫ === 博物館の右半分には、特に迫力のある展示物がいっぱいです。 最右翼の「輸送機関」は自動車以外の乗り物を展示するコーナー。自動車の車体作りの基礎技術を育んだ馬車の数々や、アパラチア山脈の山越えに挑んだ大馬力の蒸気機関車など…。
「ドライビング・アメリカ」では自動車ばかりでなく、マクドナルドやホリデーイン、ドライブイン・シアターなど車社会とともに生まれた文化の歴史まで…。「空のヒーロー」は、ライト兄弟の飛行機の複製はじめ歴史を作り変えてきた航空機…。「メイド・イン・アメリカ(動力)」は、度肝を抜かれるほど巨大な蒸気機関などアメリカ人が開発した原動機の数々…。
見逃せない展示物は、「大統領専用車」コーナーのケネディ大統領が暗殺された時に乗っていた車と、「自由と正義」コーナーのリンカーン大統領が暗殺された時に座っていたイス。 日本人には馴染みが薄いものの、公民権運動(人種差別撤廃運動)の立役者キング牧師が一躍有名になったアラバマ州モンゴメリーの市バス・ボイコット運動…そのきっかけとなった(白人に席を譲らず逮捕された)ローザ・パークスさんが乗っていたバスも、アメリカ人なら必ず立ち寄る展示物です。
「ユアプレース・イン・タイム」では、皆さんそれぞれの年代で、アメリカ人がどんなものに郷愁を感じているか分かるか分かるでしょう。私から見て若い世代のコーナーには日本発祥のピカチューやゲームボーイも展示されていて、この頃から世界の文化の一体化が進んできたのが歴然です。変わったところでは「ダイマクションハウス」…1920年代に未来の家として考案されたアルミ製の家。人間の発想の豊かさとその限界を、同時に考えさせられるユニークな展示物です。 === ≪歴史村グリーンフィールド・ビレッジ≫ ===
歴史村グリーンフィールド・ビレッジの「ヘンリーとT型フォード」セクションにはヘンリー・フォードの生家()がありますが、これは3〜4q北東()の町グリーンフィールド(当時)から移築したもの。ヘンリーが事業で成功するまでの前半生の軌跡をたどるセクションで、有名なT型フォードに試乗することもできます。
T型フォードは、1908年から1927年までの19年間に、基本的なモデルチェンジなしに15百万台製造されました。この記録を上回るのは、1938年から2003年までの65年間に2150万台生産されたフォルクスワーゲン・ビートルだけ。今から100年前のアイフォン(iPhone)やアイパッド(iPad)だったのですね。 グリーンフィールド・ビレッジの観光を通じて明らかなのが、自動車王ヘンリーの発明王エジソンに対する畏敬の念です。二人には16歳の年の差がありましたが、ヘンリーは折にふれてエジソンを助け生涯にわたり親交を続けました。 それもそのはずで、グリーンフィールド・ビレッジは、1929年にヘンリーが主催したエジソンの白熱電球発明50周年()を記念してできたのです。エジソンが電球以外にも電話、蓄音機、電車などを次々に発明したニュージャージーの研究所を中心に「昔のアメリカ村」が建設されました。 ゲストには、時のフーバー大統領夫妻やキュリー夫人、ライト兄弟の弟(兄は既に死去)、ロールフィルムの発明者イーストマン・コダック、スタンダード石油の創業者ジョン・D・ロックフェラーなど著名人が招かれ、式典の模様が全米にラジオ放送されました。思えば、大恐慌の引き金となった10月24日のウォール街「暗黒の木曜日」のわずか3日前のことです。 ヘンリーが起業前に技師として勤務していたエジソン電灯会社の建物は、ビレッジを蒸気機関車で1周する鉄道の駅と車庫を中心とする「鉄道ジャンクション」セクションにあります。円形の転車台方式の車庫には、たいへん古い薪をたくタイプの機関車もありますからごらんください。駅名は、エジソンが少年時代に列車販売の仕事のかたわら化学実験を繰り返し、貨車を燃やしてしまった苦い思い出の場所に由来します。
「メインストリート」セクションに、世界初の有人動力飛行を実現したライト兄弟の家と自転車店が移築されたのも、ヘンリーが、自動車と同様、飛行機の大衆化にただならない情熱を傾けていたからに違いありません。 フォードは飛行機会社を買収し、1926〜33年の7年間に12人乗りの本格的な旅客機を200機製造します。定期便が運航する世界初の航空会社を設立したのも、コンクリート滑走路を備える初の近代的な空港を建設したのもヘンリー。空港には、レストランやホテル、リムジン・サービスまで揃っていたそうですから、の先見の明には敬服するばかりです。
「メインストリート」セクションの残りの地域には、市庁舎や郵便局、教会や旅館、お店など典型的なアメリカのダウンタウンの光景。「リバティ・クラフトワークス」セクションには、水力利用の製材所や製粉所や、陶芸品やガラス製品から織物まで手工業で何でも作っていた時代の工房街。 「ワーキングファーム」セクションには、今は日本のブリヂストン系列のファイアストン・タイヤの創業者の牧場が移設されました。1880年代のオハイオの農場の様子が再現されています。
「ポーチ&パーラー」とは、ベランダやリビングで人々がくつろぐ情景をいうのでしょうか。このセクションには、数々の家と周辺の風物があります。それぞれに由緒のある建物ですが、聞いて驚くほどに日本人に知られている人の家はありません。 アメリカの橋には昔から有料橋があったようで、屋根付きのカバードブリッジの隣に料金徴収所があり、付近にはマサチューセッツ州ケープコッドから持ってきた風車もあります。
「ウォルナット・グローブ」セクションは、オープンなイベント会場ですが、1867年当時の古いルールで戦う野球リーグが頻繁に試合をしているので、たまたま昔のユニフォーム姿の選手たちを見かけることができるかもしれません。 園内は、鉄道に乗らなくても、馬車や昔の乗り合いバスで移動することもできます。
=== ≪工場見学と自動車の殿堂≫ === リバールージュ工場()の見学バスは、博物館の前から出ています。1917年に建設開始、1928年に完成した時点では世界最大の自動車工場でした。自動車運搬船が工場の中まで運河で入ることができるよう効率的に設計されていました。ホームページはこちら。日本語パンフレットはこちら。 自動車の殿堂()は、テーマパーク正門の左手のブロックです。1939年にワシントンDCで設立され、一時はデトロイトから車で2時間北のミッドランドにありましたが、1997年に現在の地に移ってきました。世界中の200台を越える車が展示されています。 === ≪ヘンリー・フォード屋敷≫ ===
ヘンリー・フォード屋敷()は、今はミシガン大学ディアボーン校に寄贈されて一般公開されています。日本でも大正期の帝国ホテル()を設計したことで知られるライトの弟子でプレーリー派の建築家が設計した邸宅ですから、建物だけでもごらんになる価値があります。 後に、ヨーロッパ旅行から帰国したヘンリーの心移りで「イギリスのお城」風の要素が加わりました。庭園を流れるルージュ川にはダムが設けられ、水力発電で邸外にまで電力を供給しています。 ヘンリー・フォード屋敷の正式名は「フェアレーン」。フォード家の先祖が住んでいたアイルランド南西端の地方名です。ヘンリーの父親ウィリアムは20歳の時にアメリカに移民してきて農場を始めました。当時としては晩婚で、ヘンリーが生まれたのは1863年…37歳で授かった長男です。 しかし、ヘンリーは機会いじりが好きな少年でした。農場を継がず、16歳でデトロイトに出て機械工の経験を積みます。一度は父親の説得に応じて生家()に戻りますが、早速、農場内に工房を設けました。臨時工との二股生活で知識を高めながら、独力で内燃機関を作り上げたそうです。1888年に結婚した近隣の農家の娘クララは、ヘンリーの「馬いらずの馬車」を作る夢を理解してくれました。1891年にヘンリーは農場を離れ、エジソン電灯会社に蒸気機関技師として就職します。
エジソン電灯会社でヘンリーは主任技師に昇格し、「時と金」の両面で自動車作りに打ち込む余裕が生まれました。パーティーの席でエジソンに激励され有頂天になったのも、この頃です。1896年に、ヘンリーは、自転車のスポークを利用した軽量の原動機付き四輪車を完成します。エンジンは2気筒のエタノール・エンジンで4 === ≪T型フォード全盛期≫ ===
1899年に会社を興しますが投資家との仲たがいにより別れ、1903年に新たに設立したのが現在のフォード社です。ヘンリーは、1908年に歴史的な名車T型フォードを発売してから、アメリカ文化を変革してリードする地位に上り詰めました。 T型フォードは、大量生産により低価格化を実現したことで有名ですが、一部にしろベルトコンベアを使い始めたのは1913年以降のこと。初期のT型フォードは、一体成型の4気筒エンジンで20馬力。最高時速は40〜45マイル(64〜72q/h)で燃料にはガソリン、灯油、エタノールのいずれも可。多少高くても乗りたいほど完成度の高い車だったのです。 サスペンションは、横置きリーフスプリング(重ね板バネ)。当時は少数派の左ハンドル。ハンドル下(現在の方向指示レバーの位置)に現在のアクセルに当たるスロットルがあって、足元にブレーキと(前進・後退別に)クラッチを切り替える3ペダル。乗り心地もよく、複雑な運転技術を習得する必要がない点でも画期的でした。 新素材バナジウム鋼を多用して軽量化を図り、部品の規格化を徹底して、生産効率を向上させただけではなく、当時のドライバーを悩ませていた修理の手間と費用の負担を軽減しました。 成功に自信を深めたヘンリーは、1914年からはボディのカラーを乾きがよく耐久性に優れる黒のペイント一色に絞って流れ作業の合理化によるコストダウンを進め、ついにアメリカの車の半数をT型フォードが占めるまでになりました。 単純作業に耐える労働者を引き留めるため、当時の相場の2倍を支給する「日給5ドル」宣言をしたのもこの年で、可処分所得が拡大した労働者がT型フォードを購入する循環が起き、大量生産・大量消費の時代の先駆けとなりました。
=== ≪エドセルとエレノア・フォードの家≫ ===
長男で一人っ子のエドセルが生まれたのは、1983年。ヘンリーが、エジソン電灯会社で働きながら車作りに取り組み始めた時代でした。エドセルはヘンリーを尊敬し、父と二人で車いじりをするのが大好きで育ちましたが、1919年にフォード社の社長を継いでからは、時代の潮流も変わり、父子で意見の対立が目立つようになります。ヘンリーは、T型フォード販売戦略の永続性を信じ、改良に消極的だったのです。 例えば、セルモーターでエンジンを始動する方式は1912年にキャディラックが初めて採用していましたが、T型フォードは手動でクランクシャフトを回転させる危険な方式を1919年まで用いていました。第一次大戦後には重い屋根付きモデルが売れ筋になってきますが、T型フォードのエンジンは旧来のまま。舗装道路が増えて大衆車にも高速性能が期待される時代になり、次第に世間から「安物の遅い車」と見なされるようになってしまいました。 大衆も豊かになり、多少の価格差より、見栄えのいい車を求めるようになってきます。1920年代半ばには、シボレーがモデルチェンジにより古いデザインを陳腐化させるマーケッティング方式を始め、成功します。他社がクレジット販売を始めても、フォード社だけはヘンリーの反対で出遅れるような始末。凋落は急激で、1927年にT型フォードは累計1500万台でついに生産を終えました。
エドセルは、デザイナーとしても一流で、高級車やスポーツカーの分野に強い関心を抱いていました。リンカーンを買収してフォード系列に加え、マーキュリー・ブランドを創設したのもエドセルです。頑迷で権力を譲らないヘンリーの屈辱的な言動に耐え、美しいフォルムの名車を開発してエドセルはフォード社の改革に努めましたが、1943年、道半ばで胃ガンに倒れます。49歳の若さでした。
名門学校を卒業して名門百貨店ハドソンのオーナーの姪エレノアと結婚したエドセルは、著名文化人の友人が多数住むインディアンビレッジに居を構えました。ハールバット記念ゲートで知られるウォーターワークス公園の界隈で、周辺の豪邸にはポワビック陶芸館の作品が多用されています。 セントクレア湖畔の家「エドセルとエレノア・フォードの家」は、1929年に建設されました。フォード・リバールージュ工場など工業団地からホテルや大学の建物まで、多彩な作品を手がけた建築家です。造園は、ヘンリー・フォード屋敷も手がけたジェンズ・ジェンセンです。邸内の絵画の多くはデトロイト美術館に寄贈されましたが、複製も含め、セザンヌやルノワール、ドガ、ゴッホなど日本人が大好きな印象派の作品が多数飾られています。 ヘンリーは、エドセルの死を受けて社長職に復帰しますが、健康と精神状態が不安定で経営を任せられる状況にないことは明らかで、軍需生産を継続させるために連邦政府がフォード社の接収することを検討したほどです。2年後に、孫のヘンリー・フォード2世が跡を継ぎ、ヘンリーはさらに2年後の1947年に亡くなりま |