ミズーリ州e-ガイド

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ミズーリ州

セントルイス

ミズーリ・e-ガイド目次

ミズーリ州

ミズーリ州の地形/ミズーリ州の歴史

セントルイス

ゲートウェー・アーチ

ミズーリ州

State of Missouri (The Show-Me State)


早分かり・e-マップ集/ミズーリ州の歴史/ミズーリ州の地理

早分かり・e-マップ集

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ミズーリ州の歴史

★ルイジアナ購入 ★幌馬車の道


1702年の西の北米領土(⇒拡大)

1750年の西の北米領土(⇒拡大)

NorthAmerica1762-83

フレンチ-インディアン戦争後 西 (⇒拡大)

 カナダのケベック州は今でもフランス語圏ですが、フランスの北米探検隊はカナダの東部から、セントローレンス川⇒五大湖⇒イリノイ川⇒ミシシッピー川という経路をたどったので、イリノイ川のミシシッピー川合流点付近(現在のセントルイスの対岸)には、17世紀末に早くもフランス人の町が建設されていました。

===== ≪ルイジアナ購入≫ =====

 ミズーリ州も含むミシシッピー川請願の広大な領土は、幸運にも、1803年にアメリカがフランスから15百万ドルで購入したものです。栄華を極めたルイ14世の名前をもらってルイジアナと呼ばれていました。フランスが築いた植民地をフランスから購入したのですから、何の不思議もない取引のようですが、実は、ルイジアナとフロリダは、英仏西の三国間でゲームのコマのように頻繁にやり取りされていました。境界の取り決めも曖昧で、常に紛争の火種がくすぶっていたのです。

  ルイジアナ フロリダ
〜1763 フランス 英・西
〜1783 スペイン イギリス
〜1800 スペイン スペイン
〜1803 フランス スペイン
〜1819 アメリカ スペイン

 フランス領はミシシッピー川の両岸に拡大を続けましたが、ミシシッピー川から東の領土は、フレンチ-インディアン戦争(1754〜63年)の賠償でイギリスに没収されます。さらに、イギリスは、フランスの同盟国スペインにフロリダから手を引かせ、スペインは、見返りにフランスからルイジアナをもらいます。1811〜12年の大地震で有名になったブーツヒール地方のニューマドリッドは、時代に建設された町です。フランスの領土は、北米本土から消失しました。

 そのイギリスも独立戦争(1775〜83年)に負けて、皆さんご存じの通り、ミシシッピー川東岸のほぼ全域がアメリカのものになります。フロリダは、スペインの手に戻りました。

 アメリカでは、ケンタッキーやテネシーなどアパラチア山脈の西部が発展してきました。1796年のスペインとの協定で、シシッピー川の自由航行権が認められ、農産物はミシシッピー川河口のスペイン領ニューオリンズから東部やヨーロッパへ積み出すようになりました。

 その頃、フランスではブルボン王朝が倒れ、革命を経てナポレオンが権力の座についていました。ヨーロッパで頂点に立ったナポレオンは、新大陸の植民地復活の野心を抱き、かつてのフランス領ルイジアナを、1800年にスペインから秘密裡に取り返していたのです。

 しかし、軍事力に優れたフランスが本気で戻ってきては、アメリカの西部開拓の道は閉ざされてしまいます。1802年に、表向きニューオリンズを管理するスペインの役人が協定を破棄、ミシシッピー川の自由航行が認められない事態になって西部の農民は激しく動揺。困ったジェファーソン大統領は、フランスにニューオリンズ周辺領土の売却を打診してみました。

 ところが、当時の世界情勢はめまぐるしく変化していました。フランスはイギリスと一触即発の状況に陥り、ナポレオンは莫大な戦費を急いで調達しなければなりませんでした。他方で、フランス領ハイチの反乱にも手を焼いていたナポレオンは、一転して新大陸への興味を失い、驚いたことに、ルイジアナ全土を買うようアメリカに持ちかけたのです。

 スペインとの約束には、「フランスがルイジアナを放棄するときはスペインに返還し第三国には譲渡しない」とありましたから、明らかな協定違反です。アメリカ議会も、賛成ばかりではありませんでした。「住民を自動的にアメリカ国民に編入するのは憲法違反」との解釈やスペインとの対立が激化するとの懸念から、下院では59-57のわずか2表差でかろうじて可決されたそうです。

 ルイジアナ購入で、アメリカの領土は一気に2倍に増え、フランスと交渉に当たったリビングストン駐仏公使は「アメリカは、今日から第一級の列強に仲間入りした。」と宣言しました。

=== ≪幌馬車の道≫ ===

 ルイス&クラーク探検隊(⇒セントルイス・e-ガイド)は、セントルイスからミズーリ川をさかのぼり、太平洋への道を探しました。1812年には毛皮商人の一隊がミズーリ川の支流プラット川をさかのぼり、後のオレゴントレイルに近いルートを開拓しました。1821年には、ミズーリ州の商人が、スペインから独立したメキシコとの通商路「サンタフェ・トレイル」を開拓します。

 これらの道が整備されて、開拓者が幌馬車を連ねて西部へ旅立って行ったのは、イギリスとの話し合い(オレゴン協定)でノースウェストの国境が確定した1846年頃からです。米墨戦争(1846〜48年)に勝ってアメリカが広大なメキシコ領を獲得する前に、気の早い開拓者はさっさとカリフォルニアに乗り込んでいました。

 大陸横断鉄道が開通する1869年まで25年間は、ほとんどの開拓者が、セントルイスから一本道でミズーリ川をのぼり、インディペンデンス(カンザスシティ都市圏)で上陸して、それぞれの目的地に向かって行ったのです。正にセントルイスは西部への入場門で、カンザスシティは最初の大きな分かれ道だったのです。

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ミズーリ州の地理

★二つのカンザスシティ ★ミズーリラインランド ★トム・ソーヤの洞窟

★オセージとオザークの地下資源 ★パーティー・コーブ ★ブーツヒル地方


Liberty Memorial - Kansas City, MO

Liberty Memorial, Kansas City

State Capitol, Jefferson City

File:Gateway Arch.jpg

Gateway Arch, St. Louis

 カンザスシティは、カンザス州を流れるカンザス川がミズーリ川に合流する河口にあるから、カンザスシティです。

===≪二つのカンザスシティ≫===

 ミズーリ州側にカンザスシティができてから、河口の経度を基準に州境を決めたので、東と西に二つのカンザスシティができてしまいました。

 補習校があるのはカンザス州側ですが、都市圏の中心はミズーリ州側。人口は、東のセントルイス都市圏が2.9百万人に対して、西のカンザスシティ都市圏は2.1百万人です。

===≪ミズーリラインランド≫===

 ミズーリ州の最初の州都はセントルイスでしたが、1826年に両都市の中間の小さな村が新州都に選ばれ、ルイス&クラーク探検隊を派遣したジェファーソン大統領を記念して、ジェファーソンシティと名付けられました。

 30マイル北のコロンビアも、州都の立地と同様で、州の中央にあるので州立大学の町として始まりましたが、セントルイス-カンザスシティを結ぶ鉄道が通ってからは、新たに交通の要衝となりました。

 ミズーリ州北部の丘陵地帯は氷河の南限で、セントルイスからジェファーソンシティにかけては、氷河に削られて流れてきた水はけがよくブドウの生育に適した礫土が堆積しています。ミズーリ州は中西部のドイツ系移民が多い地域の一角ですから、ライン川流域のワイン産地に名を借りて「ミズーリラインランド」…ワイン農園が多い地域です。

=≪トム・ソーヤの洞窟≫=

 「トム・ソーヤの冒険」を書いたマーク・トウェインが育ったハンニバルは、北部丘陵地帯で生産した家畜や穀物を積み出すミシシッピー川河岸の港町でした。

 「トム・ソーヤの冒険」を読んだり、アニメでごらんになった方は、悪漢のインジャン・ジョーをご存じでしょうが、彼は創作でも、彼が隠れていた洞窟の方は実在します。

マーク・トウェイン洞窟

Mark Twain Cave 

 この洞窟(⇒マーク・トウェイン洞窟)では、キチガイ科学者が亡くなったお嬢さんの体を石化する実験をしていたというのですから、実話の方が小説よりこわいですね。また、これは小説出版後の話ですが、列車強盗で有名なギャングのジェシー・ジェームズが、逃亡中に一時この洞窟に隠れ、壁に書いた落書きが残っています。

 アメリカの中央部は、3億年以上昔の時代ですが、赤道直下で浅い海でサンゴ礁が発達していたことがあり、中でもミズーリ州は石灰石の宝庫。至る所に鍾乳洞があります。

===≪オセージとオザークの地下資源≫===

Missouri Mines State Park

 オセージ川上流の丈のオセージ平原には、今はとうもろこしや大豆が栽培されていますが、昔は丈の高い草が生える大草原で、バッファロー天国だったのだそうです。州境には、世界的にも純度の高い亜鉛鉱石が採掘される鉱層があるのですが、環境問題が原因で大多数が閉山してしまいました。炭鉱は健在ですが、硫黄分が多く需要は乏しいようです。

 オザーク高地は、15億年前に火山活動で誕生しました。4億6千万年前のアパラチア山脈や1億4千万年前のロッキー山脈と比べると大先輩で、山稜は当時の造山運動の結果ではなく、その後に大地が侵食されてできたものです。感謝際のご馳走のターキー(七面鳥)の山地。東部には太古の地層が残っていて鉛や亜鉛が採掘されてきましたが、今は鉄鉱石だけ生産しています。

Lake of Ozarks

Osage Begnell Dam

===≪パーティー・コーブ≫===

 オザーク湖は人工湖で、ミズーリ州最大のリゾートです。1929年に建設を開始して数ヶ月で大恐慌が始まりましたが、ミズーリ州の場合は、オザークのダム工事は雇用と経済に大きく貢献したそうです。後にルーズベルト大統領が採用したニューディールのテネシー川開発計画のお手本になったに違いありません。

 アメリカには、各地に「パーティー・コーブ(乱痴気騒ぎの入り江)」と呼ばれるリゾートがいくつかありますが、オザーク湖の一角は、ニューヨークタイムズに「全米で最も伝統あるパーティー・コーブ」と書かれて有名になりすぎたので、地元当局は、全裸を禁止したり、ボートのスピード制限をしたりして、取締りに乗り出しました。

===≪ブーツヒール地方≫===

 地図で見ると、州の南東の端に南に向かって突き出したブーツのかかとの形をした地方があります。1811〜12年にニューマドリッドで大地震が起き、大多数の住民が移住して出て行きました。その中で、ひとり土地を買い上げ「シーザー」と呼ばれるまでになった大牧場主がいて、その陳情で、この地域の州境が定められたそうです。

 ブーツヒル地方は、(南米大陸が北米から離別する過程で生じた巨大な湾に土砂が堆積してできた)ミシシッピー沖積平野の最北端で、南隣のアーカンソー州と同じく綿花の栽培や米作が盛んです。


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