チェロキー・インディアンと西部の開拓者

★スコッチアイリッシュと西部開拓史 ★ワトーガ砦の第一歩 ★アメリカ独立戦争とフランクリン自由共和国


はスコッチアイリッシュの移民ルート

 17世紀に北アイルランドからやってきたスコッチアイリッシュ(スコットランド系アイルランド人)の移民は、主にイギリス人がまだ入植していないアパラチア山脈の奥地を目指しました。ワシントンを流れるポトマック川から、南に枝分かれしたシェナンドア川の(注)渓谷伝いに「グレート・ワゴンロード(偉大な幌馬車の道)」を下って行ったのです。

(注)渓谷というと、日本では両岸が切り立った崖のような谷あいを思い浮かべてしまいますが、アメリカの大河沿いには、やや細長い平野(高原)といいたいほど規模が大きい渓谷(バレー)があります。テネシー渓谷の平野部は、東部テネシーだけでも、ざっと見て新潟県や秋田県など日本の大型県に匹敵する広さです。

=====スコッチアイリッシュと西部開拓史=====

1765年にイギリスを訪問したチェロキー

 そのまま南西にまっすぐ進むとテネシー渓谷に至りますが、この地方はブルーリッジ山脈の南端スモーキーマウンテンズ一帯に住むチェロキー・インディアンのテリトリーでしたから、ブルーリッジ山脈の切れ目からノースカロライナのシャーロット方面に向けて南下するしかありませんでした。

 西には険しい山脈が連なって幌馬車の侵入を阻んでいましたが、1750年に(注)カンバーランド・ギャップという抜け道が見つかります。1775年にダニエル・ブーンがケンタッキーに入植してからは道幅も拡がって、ここからアメリカの西部開拓の歴史が始まったのです。

(注)歴史的に有名なこの山塊の隙間(ギャップ)は、偶然にもバージニアとノースカロライナの州境北緯36度30分のわずか北にあり、現テネシーの領域に侵入せずに現代科学者の研究で、ペルム紀(2億9〜5千万年前)に落ちた隕石が作ったクレーターから南に渓流が注いでできた自然史的にも貴重なものと分かりました。

テネシー川の流域 支流ホルストン川の流域

オーバーヒル(東部テネシー〜北部ジョージア)/ミドルタウンズ(西部ノースカロライナ)/ロワータウンズ(北西サウスカロライナ〜北東ジョージア)

テネシーの語源となったタナシは1721〜30年までチェロキーの首都

=====ワトーガ砦の第一歩=====

 チェロキーは、トウモロコシのほかヒマワリやカボチャなど食用の種が実る植物を栽培して暮らしていました。イギリスとの関係は概ね良好で、フランスと組むインディアン諸部族との狩猟場をめぐる戦争にはイギリス軍の応援を求めていました。フレンチ-インディアン戦争(1755〜63年)でも、当初はイギリス軍がフォート・ラウデンを築き、ショーニーの攻撃からチェロキーの首都を守ろうとしていたのですが、次第に相互不信が生じ内輪もめの戦いが起きてしまいます。

Royal Proclamation of 1793

 そこで、英国王ジョージ3世は、終戦後、間係修復のためにチェロキーの代表団をロンドンを招き、1763年宣言を発し、フランスから獲得したアパラチア山脈の稜線から西の領土では、植民地人の勝手な入植が行われないことを保証します。

 ところが、1771年に地理上の位置を誤って現テネシー州ワトーガ川河畔のシカモア・ショールズ(ジョンソンシティ付近)に移住してきた一団がいました。イギリス政府は退去させようとしましたが、チェロキーの長老たちが気の毒に思って土地を貸与し残留を許してしまいます。

=====アメリカ独立戦争とフランクリン自由共和国≫=====

 しかし、アメリカ独立戦争(1775〜83年)は、インディアンと西部開拓者の敵対関係があらためて浮き彫りにしました。チェロキーは、ショーニーの誘いに応じてイギリス本国政府側についてワトーガ砦を包囲攻撃したのです。しかし、植民地軍の援軍が来てすぐに降伏、それまでに白人が入植していた地域の支配権を公式に放棄することになってしまいました。

 アメリカ独立戦争で、ワトーガの開拓者はオーバーマウンテン部隊(Overmountain Men)と呼ばれ大活躍しました。アパラチア山中を進軍し、キングスマウンテンの戦い(1980年10月)とカウペンスの戦い(1981年1月)で南北カロライナの王党派民兵を打ち破ります。これが南部戦線の転機となって植民地軍の勝利が決定付けられたのです。

首都はグリーンビル…国会は丸木小屋

 チェロキーの強硬派はチャタヌガ付近に退いて1794年まで戦い続けましたが、その間にも開拓者の非合法な入植は続き、独立後の合衆国政府にも動きを止めることができません。それどころか、当時ノースカロライナ州の属領だった(注)東部テネシーは、開拓者の自治を求めて1784年に新州の独立を宣言します…合衆国政府は新州の加入を承認しませんでしたから、なしくずしでフランクリン自由共和国という国ができてしまいました。

(注)ノースカロライナ植民地では1764〜71年に世直しの戦争(War of Regulation)と呼ばれる貧農層の反乱がありました。東部テネシーの住民には、ノースカロライナ州政府の役人に反感を抱く人々が多かったに違いありません。

 フランクリンはたった4年間で破綻しましたが、さらに8年後の1796年、テネシーが(注)合衆国領土から州に昇格した最初の州となったことは、今日でもテネシー州民の誇りとなっています。

(注)テネシー州は数えて16番目の州ですが、14番目のバーモントはニューヨーク州との境界トラブルにより大陸会議に加われなかったものの独立戦争で13州とともに戦った仲間です。15番目のケンタッキーはバージニア州から分割されて独立戦争後に誕生しました。バージニア州からは、後の南北戦争時にウェストバージニアも分離することになります。

 現在のノックスビルは、ノースカロライナ生まれのスコッチアイリッシュ2世…ジェームズ・ホワイト准将(少将の下の階級)が、1786年にホワイト砦(White's Fort)を築いたのが始まりです。インディアンとの関係は良好で、砦は野生獣から身を守るためのものだったそうです。

 1791年のホルストン条約は、チェロキーの主流派と合衆国の平和条約で、ノックスビルを含むイーストテネシーの大半が合衆国領土と認められましたが、境界の規定はあいまいで、その後のさらなる紛争の火種ともなったのです。

(⇒チャタヌガ・e-ガイドに続く予定)

指定したサイズでウインドウを表示