ミドルテネシーの歴史と文化

 ★ジャクソン大統領とザ・ハーミテージ ★ナッシュビル郊外の邸宅と庭園 ★南北戦争の西部戦線


 ナッシュビル郊外の各地は、ミドルテネシーの歴史とともにご説明しましょう。

================ジャクソン大統領とザ・ハーミテージ≫================

米ドル札の人物
$1 (1) George Washington
$5 (16) Abtaham Lincoln
$10 - Alexander Hamilton
$20 (7) Andrew Jackson
$50 (18) Ulisses S Grant
$100 - Benjamin Franklin

20ドル札の第7代ジャクソン大統領(1829-37)

ザ・ハーミテイジの切手 (右はウィンフィールド・スコット将軍)

 20ドル札は日常生活で最も手にするお札ですが、お札の人物は日本人には馴染みが薄い第7代のジャクソン大統領です。

 両親はスコットランド系アイルランド人の移民で、ジャクソンは1767年にノースカロライナ州シャーロット付近の丸木小屋で生まれました。13歳で独立戦争に従軍して捕虜になり、家族も全員失ったのだそうです。しかし、その後20歳でテネシーに移住、1796年にテネシー州発足とともに上院議員になり、さらに州兵を率いて戦った第二次米英戦争の功績で大統領に選ばれた人ですから、テネシーの人たちは郷土出身の大統領だと考えています。

The Hermitage (正面は左)

 そのジャクソンがザ・ハーミテイジ(隠れ家)と命名し暮らしていた邸宅がナッシュビルの北東の郊外にあります。建物ができた1820年前後には、44名の黒人奴隷を使い4q2の綿花プランテーション(農場)を営んでいたそうです。

 正面から見るとギリシャ復興様式ですが、裏は異なる微妙な造りに見えます。最初はフェデラル様式で建てられたのですが、その後に火事があって大改築されたと伝えられています。

 ナッシュビル周辺には、このほかにも、旧プランテーションの観光・行楽スポットがたくさんあります。

================ナッシュビル郊外の邸宅と庭園================

Belle Meade Plantation

Natchez Trace

 ナッシュビルには、南東にまっすぐ伸びてミシシッピー川の下流に抜けるナッチェズトレース・パークウェイというオールアメリカンロードに指定された景観のいい道路があります。近年はジャクソンに日産工場(2003年〜)、ツペロにトヨタ工場(2011年予定)と日本車ハイウェーになりつつありますが、旧道のナッチェズトレースは、インディアンの時代から開けていた由緒あるルートです。

(注)All American Road…全米99のNational Sceanic Bywayの中から特に選ばれた27の高速道路。

Rock Castle

 ベルミード・プランテーションは、1807年に旧道のナッチェズトレースに開かれたサラブレッドの牧場でした。南北戦争では前庭で両軍が戦い、銃弾の後が邸宅の円柱に生々しく残っています。

 この地方で最も古い邸宅は、インディアンレイク湖畔のロックキャッスルです。1779年のナッシュビル入植開始から5年後に建設を始めましたが、インディアンの襲撃に悩まされ完成まで7年の月日を要したといわれています。

Nashville Zoo at Grassmere

Historic Croft Home

 ナッシュビル動物園はグラスメアというプランテーションの跡地にありますが、その一角で公開されている旧家は、動物園に土地を寄贈してくれたクロフト家が1810年に建てたものです。

Cheekwood Botanical Garden

and Museum of Art

 チークウッド植物園&美術館も元は個人のお屋敷でしたが、1932年竣工のジョージア様式建築で、プランテーションとは関係ありません。

 ナッシュビルのダウンタウンには1961年に焼失するまでマックスウェルハウスという名門ホテルがありましたが、ある日泊まったセオドア・ルーズベルト大統領が「最後の一滴までおいしい」と絶賛したコーヒーこそチーク家がブレンドして納入していたコーヒーでした。

 1928年に、チーク家は今のゼネラルフーヅの前身の会社に権利を4千万ドルで売り渡しました…今でも大金ですね。これが、インスタントコーヒーのブランドで今日まで残るマックスウェルの由来です。

================南北戦争の西部戦線================

 ミドルテネシーには南北戦争(1861〜65年)の戦跡がいくつかあります。ナッシュビルは、幸いアトランタのように焼き払われるようなことはありませんでしたが、西部戦線の最前線で戦闘は壮絶でした。三つの時期に分けて、簡単にご説明します。

南北戦争の西部戦線 (北軍南軍)

 テネシーは、南軍への参加を最後に決断した州です。アパラチア山麓で、黒人奴隷を使役するプランテーション農業に縁がない東部テネシーは、合衆国からの分離独立に反対していました。

@テネシーを流れる二大河川カンバーランド川とテネシー川は北にさかのぼって、ケンタッキー州のパドゥーカでオハイオ川に合流しています。後に18代大統領になる北軍のグラント将軍は、1862年2月に船でテネシー川を上ってフォートヘンリーを奪い、続いて陸路で18q東のカンバーランド川フォートドナードソンを攻略しました。カンバーランド川の制水権を失って、南軍はナッシュビルを戦わずして放棄し、北軍はナッシュビルを守るためにダウンタウンの南にフォートネグリーを築きました。

A1862年8月に東部テネシーからケンタッキー州に侵攻した南軍と、追いかけて中部テネシー方面から北上した北軍が10月にペリービルの戦いで激突。勝負はつきませんでしたが、南軍はケンタッキーから撤退することになります。それぞれの部隊は、テネシーに戻って大晦日にマーフリーズボロで再戦しました。これがストーンズリバーの戦いです。当初は南軍が優勢でしたが、翌年1月2日の戦いで南軍も損失を拡げ60q南のタラホーマに撤退せざるを得ませんでした。

 北軍は、1863年7月にミシシッピー川のヴィックスバーグ要塞を攻略してミシシッピー川流域を完全に支配します。1864年の夏にはチャタヌガ方面からジョージア州に侵攻し、9月に南軍はアトランタに火をつけて逃げ出しました。北軍のシャーマン将軍は、サバンナまで鉄道などを破壊しながら進軍、さらに南北カロライナ州に侵攻を続けました。

Bアトランタを放棄した南軍部隊はアラバマ経由で中部テネシーに向かいました。しかし、11月30日のフランクリンの戦いと12月15〜16日のナッシュビルの戦いで完敗、南軍の西部戦線部隊は、この時点で実質的に壊滅したのです。

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