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2013年11月15日(第89号)


インディアン戦争の歴史シリーズ@

 初期の入植者とインディアンの対立(17〜18世紀)

 白人が現れるまで、インディアンは全米の至る所で暮らしていました。それが今は(白人社会に融合した人々を除き)面積で国土の2.3%に過ぎない約310のインディアン居留地に閉じ込められています。アメリカの開拓史は、いわば白人が各地のインディアンの土地を力ずくで略奪していった歴史です。

 インディアン戦争は白人の入植とともに17世紀初頭に始まり、1890年の「フロンティア消滅宣言」の後も小規模な蜂起は20世紀初頭まで続きました。300年の歴史を一つの記事で書き切るのは難しいので、今号から4回に分けて連載させていただきます。

@初期の入植者とインディアンの対立(17〜18世紀初頭)

A英・仏・米とインディアンの四つどもえ(17世紀末〜18世紀)

B南東部・中西部のインディアン一掃(18世紀末〜19世紀初頭)

C大西部時代のインディアンvs.騎兵隊(19世紀後半)

白人渡来前のインディアン部族の分布(⇒拡大) 


ハリウッド創作のステレオタイプ


平原インディアンと騎兵隊

ティピー(Tipi)

 インディアンの文化や歴史を理解する上で妨げになるのが、1960年代初頭まで盛んに作られた西部劇映画に登場するインディアンのイメージです。

 モデルはスー族やシャイアン族など平原インディアンで、夏はバッファローの群れを追い、ティピーというお馴染みのテントで移動して暮らす狩猟民でした

 彼らが頭に羽飾りをつけ馬にまたがって騎兵隊と戦ったのは事実ですが、そのあたりがハリウッド流に誇張されてステレオタイプなインディアン像ができてしまいました。

ウィグワム(Wigwam)

17世紀のロングハウス

 実は、大多数のインディアンは、一年中定住してトウモロコシなどを栽培し、農耕生活を営んでいました。漂着したメイフラワー号の清教徒(ピルグリムファーザーズ)に食物を施し助けてあげた半農半漁のワンパノアグ族など、北東部にはウィグワムという外壁を樹皮や布で覆ったドーム型の住居で暮らす部族が多かったそうです。

土壁造り(Wattle & Doub)

 共同住宅で一棟30〜40人が寝起きする部族もいました。屋根はドーム型でしたから、次第に切妻式に変化。

 南東部では木の枝の格子を塗り固めた土壁造りの家がマウンドと呼ばれる盛り土の上に建てられていました。


ニューイングランド植民地の抗争(17世紀)


植民地 戦争名 期間 敵対部族 同盟部族
New England Pequot War 1634–38 Pequot

Narragansett

Mohegan

King Philip's War 1675–78 Wampanoag
Nipmuck
Podunk
Narragansett
Nashaway
Mohegan
Pequot

 インディアンは白人が持ち込んだ病原菌に免疫がなく、1616〜19年に流行した疫病で多くの人命が失われました。メイフラワー号が漂着したのは1620年で、直前の急激なインディアン人口の減少が清教徒の友好的な入植を助けましたが、1630〜40年には一気に2万人が植民し、清教徒とニューイングランド全域で1万人のインディアンの対立が顕在化します。

最初の感謝祭の想像画

(インディアンの姿はやはりステレオタイプ)

 白人は日用品や衣料と引き換えにインディアンから土地を購入したつもりでいましたが、インディアンにとっての土地は共有物。個人が占有するものではありません。白人から賃料をもらっているつもりで不動産証書にサインしているうちに「白人の土地」から締め出され、次第に居場所を狭められてしまったのです。


 フィリップ王戦争は、白人から「フィリップ王」と呼ばれていたワンパノアグ族のメタコメット酋長が起こした戦争です。メイフラワー号の清教徒を救い感謝されたマソサイト酋長の息子でしたが、日頃の不満から白人への反抗を企てました。謀議に加わったインディアンが白人に捕えられ処刑されたのを見過ごせず、1675年6月に攻撃を仕掛けました。インディアンにとって戦闘中に敵を殺すことは正当な行為ですが、裁判にかけて処刑することは卑怯で許せない行為だったのです。

 戦争は他のインディアン部族も巻き込む大戦争になりました。インディアン側は十分な銃や火薬を蓄えていて射撃もうまく、次々に白人の集落を焼き払い、ニューイングランド植民地は一時壊滅の淵まで追い詰められます。しかし、11月に千人のイギリス軍が到着し、ワンパノグア族の難民をかくまい、3千のナラガンセット族がこもる要塞に総攻撃をかけ戦況が逆転しました。中隊長14人のうち8人が戦死するイギリス軍にも犠牲の多い戦闘でしたが、インディアンの2/3は戦死するか焼死し、残りは逃亡しました。

 フィリップ王は翌年の6月に戦死。北部やイリノイなど遠隔地に逃げたインディアンを除き、大半は降伏して男は奴隷として売られ、婦女子は使用人として白人家庭に分け与えられたそうです。いかにも白人側の大勝利のようですが、焼き払われた全ての村に再び入植者が戻るまで20年、復興してニューイングランドが植民地の領域を拡げる余裕ができるまでには40年の歳月が必要でした。


 それに先立ち1630年代に起きたピクォート戦争は、イギリス人相手に毛皮取引をするモヒガン族とオランダ人相手のピクォート族のライバル関係がこじれて起きた戦争です。


バージニア植民地の抗争(17世紀)


植民地

戦争名

期間

敵対部族

同盟部族

Virginia

Anglo-Powhatan Wars

1610–14

1622–32

1644–46

Powhatan

Susquehannock War(Bacon's Rebellion)

1675-77

Susquehanock

Doeg

Occaneechi 

Pamunkey

 バージニアのジェームズタウンは、イギリスが初めて入植に成功した植民地。国王勅許のバージニア会社に夢を託した人々がやってきて、1607年に現ワシントンDCの南200qに建設しました。

 ところが、ジョージタウンは大量のマラリア蚊が発生し飲料水にもことかく低湿地でした。最初の渡航者は金鉱発見の夢に時を費やし、穀物の栽培に失敗…104名のうち半年で飢えと病気で51名が落命する多難な幕開けでした。

 植民地は周辺に住むインディアンのポウハタン族とも友好関係も築けず、1610年には第一次の戦争が起きます。この時に人質として白人に拉致されたのがポウハタン酋長の娘で、ディズニー映画のヒロインにもなったポカホンタスです。白人と結婚したポカホンタスが奔走したおかげで、インディアンとの平和条約が締結されました。

ポカホンタスと息子といわれる絵

 その後はしばしの平和が続き、相変わらず病死者は多いものの、タバコの栽培に成功して植民地の生計は立つようになってきます。入植地はインディアンの土地を蚕食して徐々に拡大していましたが、平和条約に頼り切り防備を怠っていました。

 しかし、実はインディアンの我慢は限界を超えていたのです。1622年にポウハタン族の奇襲でジェームズタウンの町の人口の1/3に当たる347人を虐殺され、第二次ポウハタン戦争が起こりました。イギリス政府は、バージニア会社の植民地運営権を取上げ、総督を任命して国王直轄地とします。ポウハタン族は第三次ポウハタン戦争を経て、点在する居留地に封じ込められてしまいます。


 さらに月日を重ねて1675年、サスケハノック族がバージニア周辺部の白人居住地を襲うようになりました。サスケハノック族は、他の部族に追われペンシルバニアから移住してきたばかりでしたが、ドウグ族のトラブルに巻き込まれ、白人から筋違いの報復を受けたのが原因です。

 ところが、植民地の総督はインディアンの制圧に消極的でした。全面衝突することを恐れたとも、個人的にインディアンとの毛皮取引で儲けていたからだともいわれています。砦を築き防御を固めようとしましたが、そんな生ぬるい対応で周辺の農民は納得しません。

 沿岸部の大農場主を優遇する差別的な政治の下、日頃から植民地政府のタバコ税に苦しめられ、零細農民の不満は貯まっていました。ナサニエル・ベーコンという若者を将軍に推し立て、まずオカニーチー族というインディアンを攻撃。次に矛先を変えて、植民地政府に対し反乱を起こします。

 反乱軍は数ヶ月にわたりバージニアの大半を支配しました。やがて鎮圧され、ベーコンも病死しましたが、民衆はベーコンの反乱に同情的で、植民地の政治改革が進みました。歴史家の中には、アメリカ独立戦争につながる事件と高く評価している人もいます。


南北カロライナ植民地の抗争(18世紀)


植民地

戦争名

期間

敵対部族

同盟部族

North Carolina

Tuscarora War

1711-15

S. Tuscarora
Pamlico
Cothechney
Coree
Mattamuskeet
Matchepungo

N. Tuscarora

Yamasee
Apalachee
Catawba
Cherokee

South Carolina

Yamasee War

1715-17

Yamasee
Ochese Creeks
Catawba(~15)
Cherokee(~16)
Waxhaw
Santee

Catawba(15~)
Cherokee(16~)

 カロライナの入植者には西インド諸島からの移民も多く、植民地の文化は多彩で国際的でした。そこで、植民地の農産物とともにインディアンから買いつけた鹿皮を輸出し、代わりに輸入品の銃やラム酒や衣料をインディアンに売るビジネスサイクルができました。植民地と軍事同盟を結んでいたヤマシー族は、スペインに味方するフロリダの部族などと戦って、捕虜を奴隷として売り飛ばしていました。

 ところが、18世紀に入りコメが市場で有望な商品作物となって、白人には米作に適した沿岸部に住むインディアン部族が邪魔になってきます。インディアンの部族間でも利害が対立し、1711〜15年のタスカローラ戦争ではノースカロライナの沿岸部に住むタスカローラ族が南北に分かれて戦いました。


 植民地に味方したヤマシー族も、戦後は乱獲と和平で鹿皮と奴隷の収量が減り、白人に対する負債が増えて追い詰められていました。1715年4月に始まったヤマシー戦争では、当初、全ての周辺部族がヤマシー族側について戦い、総督府のチャールズタウン(現チャールストン)は入植地を放棄して逃げてきた開拓者であふれ食料不足に陥りました。

 白人の7%が死亡する大戦争でしたが、植民地は部族ごとに説得し、チェロキー族の寝返りを機に戦争は収束に向かいました。もともと多部族混交のヤマシー族は、各地に分かれてフロリダのセミノール族などに合流しました。ヤマシー族が退いた後の現ジョージア州は入植環境が整い、1733年に植民地が建設されることになります。