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===== 預言者テンスクワタワ ===== ショーニー族のテンスクワタワも「預言者(The Prophet)」のひとりで、1805年に突然覚醒し、アルコールや(自衛のための銃を除き)白人がもたらしたものを捨て、狩猟と伝統的な農業に励み、古来の平穏な共同生活に戻るよう提唱しました。 さらに、テンスクワタワは白人との交易や婚姻を禁じ、周囲の部族にも白人への土地売却を止めるよう呼びかけます。そのうちに、テンスクワタワの崇拝者が、魔女狩りで白人追随者を殺すようになりました。 オハイオでは白人入植者との緊張が高まり、1808年にテンスクワタワは現インディアナ州ラファイエットに移住して「プロフェッツタウン(預言者の町)」を開きます。 ===== 軍事・政治指導者テカムセ ===== 有名なテカムセは、テンスクワタワの兄で、弁舌の立つショーニー族の軍事・政治指導者でした。1809年からテカムセは各地の部族を精力的に歴訪し、インディアン同盟の再結成に努めます。 しかし、インディアナ準州のハリソン知事(後の第9代合衆国大統領)は、インディアンの体制が十分に整う前に先制しました。1811年11月、テカムセが南部各地を歴訪して留守の間にテンスクワタワを誘い出し、ティペカヌーの戦いに破りプロフェッツタウンを焼き払ってしまいました。
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デトロイトの降伏 |
当時のアッパーカナダ(現オンタリオ州)は、入植者の大半が独立戦争時代の王党派難民でした。1812年戦争(米英戦争)では、「反米」を旗印にカナダに初めての国民意識が芽生え、住民がイギリス軍やインディアンと団結してよく戦ったと言われています。
逆に、簡単にカナダを奪えると楽観していたアメリカは、前線では宣戦布告のニュースをイギリス軍に先に知られてしまうほどの不始末で、緒戦はカナダ側に先手を取られます。ヒューロン湖とミシガン湖をつなぐ水路の要衝マキノー砦と、さらにイリノイ川経由でミシシッピー川とつながる地現シカゴのディアボーン砦を失ってしまいました。
残る五大湖最大の拠点デトロイトを守るアメリカ北西軍のハル司令官は、ミシガン南東部をインディアンから購入した功績者でした。しかし、越境してイギリス軍の砦を落とすことができず、8月にはデトロイトをイギリス・インディアン混成軍に包囲され、戦わずして撤退してしまいます。
青字 アメリカ軍の勝利 赤字 イギリス・インディアン軍の勝利 |
===== リメンバー・ザ・レーズン =====
後釜の司令官はティペカヌーの戦いに勝ったインディアナ準州知事のハリソンで、現トレド付近に進撃してメイグス砦を築き、デトロイトのイギリス軍に対峙しました。
しかし、翌年1月にレーズン川のほとりで起きたフレンチタウンの戦いでは惨敗してしまいます。経験の浅い民兵千人の部隊のうち約3百人が戦死。残りほぼ全員も捕虜となり、歩けなくなった負傷者約百人はインディアンの手で虐殺されました。
余談ですが、その後の戦争では「リメンバー・ザ・レーズン」がスローガンになります。後のテキサス独立戦争の「リメンバー・ジ・アラモ(メキシコ軍に全滅させられた砦)」、米西戦争の「リメンバー・ザ・メイン(キューバの暴動鎮圧のため派遣され原因不明の爆発で沈没した巡洋艦…開戦の口実)」、太平洋戦争の「リメンバー・パールハーバー(日本の真珠湾攻撃)」、アフガン戦争・イラク戦争の「リメンバー・9/11(同時多発テロ)」…一連のフレーズの先例となります。それほど、テカムセたちインディアンの残虐さが際立つ戦闘だったようです。
===== テカムセの戦死 =====
William H. Harrison |
しかし、その後のイギリス・インディアン軍はメイグス砦包囲戦を2度試みて失敗、160人のスティーブンソン砦を1400人の兵で攻め切れず戦線は膠着状態に陥ります。逆にエリー湖の海戦に負けてイギリス海軍が制水権を失い、物資の補給路を絶たれて弱気になったイギリス軍は、デトロイトから撤退します。
1813年10月、テカムセがテームズ川の戦いで戦死してインディアン同盟は雲散霧消してしまいます。アメリカは準備不足でデトロイト方面の緒戦に失敗し、その後の五大湖東部とセントローレンス川方面作戦でも深くカナダに侵攻することはできませんでした。
当初はアメリカに有利だった大西洋の海戦も、1813年にヨーロッパでフランスの勢いが衰えてからは、イギリスが艦隊を増派。1814年には陸戦隊の上陸を許し、首都ワシントンのホワイトハウスが焼き討ちされるところまで追いつめられました。
とはいえ、イギリスも好きで始めた戦争ではありません。米英ともに戦争を続ける財政的なゆとりはなく、1814年末に米英戦争は戦前の国境を維持する形で終戦します。
テカムセ戦争の前線から帰ったソーク族のブラックホークは、ミシシッピー川上流域でイギリスを助けて戦っていました。しかし、ウィスコンシン川河口のプレーリードゥシーン砦などこの地域の要衝も、例によってインディアンへの相談なしに、アメリカに返還されてしまいます。
@フレンチ・インディアン戦争Aポンティアック戦争Bダンモア戦争C独立戦争西部戦線D北西インディアン戦争E1812年戦争(テカムセ戦争)を合わせて60年戦争と呼ぶ人々もいます。
アメリカ中西部のインディアン戦争は、1620年代にインディアン社会の内戦(ビーバー戦争)で始まり、次いで英仏植民地戦争に巻き込まれ、親英のイロコイ連邦と親仏の反イロコイ連邦インディアンに分かれて戦われました。
しかし、60年戦争の間に真の敵はアメリカ(西部開拓者)であることが明らかになり、保守派は部族を越え団結して戦いましたが、多くは白人文化を捨て切れずアルコールと装飾品や日用品を得るために土地を切り売りして崩壊していったといえましょう。
===== インディアンと白人が対立する原因 =====
インディアンと白人が対立した根本原因は、インディアンのコミュニティが狩猟と原始的な農業で糧を得る一種の共産社会だったのに対して、農業技術に勝る白人社会は土地を個人所有し、その土地で得られた作物や家畜の肉も個人所有するのが当たり前だったからです。そのため白人側が土地を買ったつもりでも、インディアン側は一時的に貸しただけのつもりという誤解が繰り返され、お互いが不信感を増殖させました。
もう一つの誤解は、インディアン社会が合議制で、白人社会のように、部族を代表して重要事項を決められる人物がいなかったことで生じました。つまり、白人側は条約を結んだつもりでも「オレはいいよ」という意味に過ぎず、土地を共有する仲間の中から「オレは聞いてないぞ」という異議が出てくるわけです。
トランシルバニア植民地憲法会議 |
ケンタッキーをめぐるインディアンと開拓者の対立は、正にその典型例でした。特にケンタッキー一帯を購入する「条約」は、開拓者ダニエル・ブーンと親しい投資家がチェロキー族と私的に交わしたもので、白人側から見ても法的に疑義がありました。そもそも、イギリスも各地の植民地政府も「条約」にかかわっておらず、チェロキー族の中でも武闘派のドラッギングカヌーは売却を拒否していたのです。
ケンタッキーの開拓者は、1775年にトランシルバニアという名の植民地を設立しますが、そのままでは独立戦争でイギリスを相手に戦う13植民地の仲間に入れてもらず、既述のように、新カウンティとしてバージニア州に編入してもらう道を選びました。
===== ポーテージデスー条約 =====
独立戦争後のアメリカは、正式な条約なしにインディアンの土地を蚕食しないと約束していましたが、元は共有地ですからその後もトラブルが付きまといました。
テカムセ戦争は、オハイオに続いて、インディアナ南部に開拓者が押し寄せていた時代に起きましたが、この頃、既にイリノイやルイジアナ買収で得たミシシッピー川以西の領土で、広大な土地が購入されていました。すぐに紛争が起きなかったのは、オハイオやインディアナに比べ、まだ開拓者の関心が低かったからに過ぎません。
Treaty of St. Louis |
特に大きなところでは、1804年にソーク族とフォックス族が、東西をイリノイ川とミシシッピー川に挟まれ、南北をミズーリ川とウィスコンシン川に仕切られる地域(右図)を、また1809年にはオセイジ族が現ミズーリ州とアーカンザス川以北の現アーカンソー州に当たる地域を、アメリカに譲渡しています。
ところが、こうした条約には、当事者扱いされなかった部族の不満があったのでしょう。アメリカは、1815年にセントルイス北部のポーテージデスーで、新たにポタワトミ、スー、アイオワなどを加えた周辺11部族37酋長を招き、あらためて既に割譲されて得た領土を追認してもらいます。インディアン戦争の意味合いでは、これが1812年戦争(米英戦争)を終戦させる条約だったわけです。
===== ブリティッシュ・バンド(イギリス部族) =====
Black Hawk |
イギリス軍とともにミシシッピー川上流域で最後まで戦っていたソーク族のブラックホークは、すぐには招請に応じません。翌1816年にしぶしぶ署名したときには、ポーテージデスー条約に調印する最後の酋長になっていました。
しかし、アメリカもソーク族には配慮して、当面は立ち退かず従前通りの暮らしを続けるよう特別に認め、しばらくは平和な時代が続きます。
問題が再燃したのは1828年。とうとう開拓者がイリノイ北西部に進出してきて、ソーク族はミシシッピー川以西に引越さなければなりませんでした。
ブラックホークは1767年生まれですから、当時はもう65歳。一度は部族を引き連れて対岸に移住しましたが、故郷を懐かしむ想いは捨てられません。1832年に挙兵して、かつて共に戦ったイギリスの軍旗を押したてて戦いました。
この戦争には、当時23歳のリンカーンが民兵の指揮官として従軍したことでも知られています。実戦には出くわしませんでしたが、後の政治家の経歴に花を添えました。そういえば、リンカーンは1809年にケンタッキーで生まれ、1815年にインディアナ、さらに1830年にはイリノイへと移住し、少年期を正に西部開拓地の最前線で過ごしてきた人物です。
この戦争は、ブラックホークに従った戦士5百名と婦女子ら千名のうち約5〜6百名が落命し3ヶ月足らずで終わりましたが、ブラックホークら幹部は捕えられ翌年には首都ワシントンに送られ、まもなく釈放されます。
その後は、大建造物が林立するボルチモア、フィラデルフィア、ニューヨークでディナーや観劇の接待を受け、戦艦や軍隊のパレードを見物する機会を与えられましたが、逆にインディアンを見たことのない東部の人々の奇異の目にさらされたようなきらいもありました。
ジャクソン大統領には、アメリカの大都会をインディアンの実力者に見せて、白人に力で抵抗する無意味さを理解させようとする意図があったようです。