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2014年1月15日(第91号)


インディアン戦争の歴史シリーズB-1

 中西部のインディアン一掃(18〜19世紀)

 北米では、ヨーロッパの英仏戦争に呼応し、ウィリアム王戦争、アン女王戦争、ジョージ王戦争、フレンチ・インディアン戦争と英仏抗争が繰り返されてきました。インディアンは部族ごとに英仏と手を組んで戦い、その都度、勢力を衰えさせてきましたが、その後の2度の米英抗争(独立戦争・1812年戦争)では、中西部のインディアンは結束して、アメリカを相手に戦おうとする機運が芽生えます。

第89号

先月号

今月号

次号以降

@ 初期の入植者とインディアンの対立 (17〜18世紀初頭)

A 英・仏・米とインディアンの四つどもえ (17世紀末〜18世紀)

B-1 中西部のインディアン一掃 (18世紀末〜19世紀前半)

B-2 南東部のインディアン一掃 (18世紀末〜19世紀前半)

C 大西部時代のインディアンvs.騎兵隊 (19世紀後半)


独立戦争と1812年戦争(米英戦争)の時代


 フレンチ・インディアン戦争でフランスは北米植民地を失いました。しかし、独立戦争でアメリカ独立の立役者となったのですから、見方によって独立戦争は5回目の北米植民地戦争…フレンチ・インディアン戦争の復讐戦だったといえるかもしれません。

===== フランス革命 =====

 独立戦争は1883年のパリ条約で終わりましたが、その戦費でフランスの財政は破綻し、わずか2年後にはフランス革命が起きてルイ王朝が崩壊してしまいました。独立戦争は、フレンチ・インディアン戦争で疲弊したイギリスが植民地に重税を課したことで始まり、復讐戦で疲弊したフランス王政の崩壊で終わったということです。

===== インディアン戦争との関係 =====

 独立戦争の西部戦線と南部戦線の一部は、イギリスの後押しを得たインディアンと西部開拓者の戦いでした。西部と南部のインディアン戦争は、パリ条約で白人同士が独立戦争を決着させてからも続き、それぞれ北西インディアン戦争やチカモーガ戦争と呼ばれるようになります。

 当時はヨーロッパ諸国が、国王と王妃を処刑したフランスの過激な革命政府に干渉戦争をしかけていた時代です。イギリスは、アメリカと問題を起こしたくない事情から、インディアンの支援に消極的になっていました。

===== ナポレオンとルイジアナ購入 =====

 フランスでは1799年にナポレオンが権力を握り、アメリカは1803年にフランスからミシシッピー川以西のルイジアナを購入しました。ルイス・クラーク探検隊が太平洋への陸路を発見し、アメリカは本格的な西部開拓時代を迎えます。言い換えれば、全米でインディアンが一掃される時代の始まりでした。

期間 北米の戦争 主戦場 米英戦争
1774 Lord Dunmore's War W. Virginia
1775–83 Western Theater

Ohio

Revolutionary War

Chicamauga Wars (~94) Tennessee/Carolinas
1785–94 Northwest Indian War Ohio/Indiana

1811–13 Tecumuse's War Indiana/Michigan

War of 1812

    (1812-15)

1813–14 Creek War Alabama

===== カナダ合邦の野心 =====

 1812年戦争は、アメリカの大義が少々疑われる戦争です。1812年は絶頂期のナポレオンがロシア遠征をした年で、イギリスが北米どころではない間にあわよくばカナダを合邦してしまおうという甘い下心が見え隠れしていました。

 それだけに、アメリカの準備は不十分で、国民の支持も得られず、将来的にもカナダ合邦の望みはないことを思い知った戦争です。

 しかし、同時進行で戦われた南北のインディアン戦争(テカムセ戦争・クリーク戦争)では大きな成果を上げ、ミシシッピー川以東から全てのインディアンを立ち退かせる軍事基盤を築くことができました。

1812年のヨーロッパ情勢(⇒拡大


愛国派・王党派とインディアン


 独立戦争を理解する上で難しいのは、都市部でイギリスと結びつきが深い王党派の人々以外に、内陸部でイギリスに加勢して戦う王党派民兵が多数いたことです。

 17世紀にはバージニア植民地でベーコンの反乱という事件が起きましたが、その後も各地で植民地政府と辺境開拓者の争いが発生していました。ニューヨークやニュージャージーの場合は自作農ではなく、小作農の地主に対する反乱でした。

===== 世直し戦争 =====

 1765〜71年にカロライナ奥地(新興開拓地)の小規模営農者が、沿岸部の大農場主を優遇する腐敗した植民地政府を相手に世直し戦争(War of Regulation)と呼ばれる反乱を起こしました。

 反乱は鎮圧されましたが、独立戦争では反乱に加わった農民の多くが、王党派民兵として再び植民地政府を相手に戦ったものと考えられます。反乱のニュースはボストンにも伝えられ、イギリス政府に怒る愛国派の人々の心に火をつけたといわれていますから、世の中は皮肉です。

===== 初期の西部開拓者 =====

 一方で反乱後に逃げた農民の中には、アパラチア山脈を越え西部開拓地に移住した人々がいました。この人々は、その後インディアン襲撃の脅威にさらされ、愛国派となって仇敵の植民地政府と手を握り、インディアンと戦う道を選びました。

 さらに、独立戦争に敗れた王党派の多数が逃げて、カナダのロワーケベック(現オンタリオ州)に入植しました。1812年戦争(米英戦争)で、アメリカがカナダ戦線で手こずった大きな要因です。

 下の図をごらんください。独立戦争は、植民地の正規軍と愛国派民兵が、イギリス軍と王党派民兵とインディアンを相手に戦った戦争です。北部戦線でイロコイ連邦の一部、西部戦線でショーニー族などオハイオ周辺の部族、南部戦線ではチェロキー族の武闘派を敵に回しました。


イロコイ連邦の最期(独立戦争の北部戦線)


 一時はビーバー戦争(⇒先月号)で中西部に大領土を築いたイロコイ連邦も、今は衰えていました。長い間、同盟を組んできたイギリスが、突然、本国軍と植民地軍に分かれて全面戦争を始め、板挟みになって悩みます。双方から牽制されて、中立を保つことさえできません。

 結局、モホーク、セネカ、オノンダガ、カユガの4部族はイギリス本国につき、残るオナイダとタスカローサの2部族は大半が植民地に加勢することにします。イロコイ連邦は内乱に陥り、植民地の愛国派と王党派の民兵も交え互いの集落を襲撃し合いました。

 1777年にハドソン川上流のサラトガでイギリス軍が降伏し、米英間では北部戦線の決着がつきます。しかし、内乱はその後も引き続き、王党派とセネカ族らインディアンによる開拓地襲撃が止みませんでした。

===== インディアン殲滅命令 =====

George Washington

 植民地軍のワシントン総司令官(後の初代大統領)はかつてイロコイ連邦と手を携えフランスを相手に戦った仲でした。しかし、独立戦争では容赦なく「婦女子を含めできるだけ多くのインディアンを拉致し村を殲滅させる」作戦を推進します。誰彼かまわずインディアンを極限まで震え上がらせるのが目的でした。

 1779年、サリバン少将率いる討伐隊はニュータウンの戦いに勝ち、セネカ族の領土に攻め入って40集落を畑や果樹園もろとも破壊し尽くしました。その冬は、5千人を越えるイロコイ族難民の多くが、飢えと寒さで死亡したと伝えられています。

 植民地に味方するオナイダとタスカローサ2族の中にも怖気づいてカナダに逃亡する人々が続出しました。この時点で、イロコイ連邦は事実上壊滅したといって差し支えありません。


西部開拓時代の始まり


Sun Watch Village, Dayton

ミシシッピー文化の遺跡(⇒拡大)

 オハイオ州デイトン近郊には、インディアン遺跡の再現住居が残っています。ショーニー族はその末裔と考える学者もいますが、オハイオからケンタッキーにかけていた旧住民は17世紀にビーバー戦争(⇒先月号)でイロコイ連邦に一掃されてしまったため、確かなことは分かりません。

 しかし、18世紀に入ってからはイロコイ連邦もフランス相手の抗争に疲れ、西寄りから徐々に領土を捨てて後退しつつありました。

===== オハイオのインディアン =====

 おかげで、オハイオにはチリヂリに逃げて生き延びたインディアンが戻り、ショーニー族はじめデラウェア(レナぺ)族やミンゴ族が、部族を越えて集まり住むようになりました。

 デラウェア族は、土地を失いニュージャージー周辺から移住してきた部族。ミンゴ族はイロコイ連邦と近縁性がある部族です。オハイオ北西部にはワイアンドット(ヒューロン)族、インディアナにはマイアミ族が暮らしていました。

===== ケンタッキーの開拓地 =====

 ケンタッキーはイロコイ連邦が去った後も無人のまま残されていました。しかし、インディアン社会の約束では、狩猟地として周辺部族が共有する大事な領土…いわば入会い地です。そこへ白人開拓者が入植して来たら、衝突が起きるのは当たり前です。

 開拓者は、1768年の条約でイロコイ連邦からケンタッキーの東部を買い、1775年の条約でチェロキー族からケンタッキーの西部を買ったと都合よく考えていました。しかし、ほかにも入会い権を持っていたショーニー族らオハイオの諸部族やチェロキー族の武闘派は条約には調印していません。

 イギリスは、1763年宣言(⇒先月号)でアパラチア山脈西部に開拓者の入植を許さないと約束し、インディアンの土地を守る立場でした。1774年にはケベック法でオハイオ川の北をカナダ(旧フランス植民地)に併合し、13植民地(後のアメリカ)が手出しできない地域に組み込もうとしました。

 開拓地でも反英世論は高まり、植民地は一気に独立戦争に突き進みます。


独立戦争の西部戦線


 独立戦争の西部戦線は、ダンモア戦争から引き続き、さらに北西インディアン戦争へとつながる通算10年を超える戦乱の一部でした。

===== バージニア州ケンタッキー郡 =====

 ダンモア戦争に負けショーニー族はケンタッキーをあきらめたはずでしたが、その後もインディアンの襲撃事件は絶えません。独立戦争の開戦後は、多数の開拓者が東部に戻って行きました。残った2百人足らずの開拓者も、セントラルケンタッキーの3つの砦に立てこもり守りを固めます。

 1776年、若干24歳で開拓者の代表に選ばれたジョージ・ロジャーズ・クラークは、バージニアの州都ウィリアムズバーグに出向いて陳情し、新カウンティとしてケンタッキーをバージニア州に編入してもらうことに成功します。帰りには民兵隊の指揮官に任命され、お土産に弾薬を持たせてもらいました。

 1804〜06年のルイス・クラーク探検隊で、太平洋への道を発見したウィリアム・クラークのお兄さんです。

===== デトロイト砦・カスカスキア砦・ビンセンス砦 =====

George Rogers Clark

 一方、イギリス軍は、北部戦線を側面支援する目的で、デトロイト砦でインディアン傭兵を雇いケンタッキーの開拓地を襲撃させることにしました。オハイオのインディアンも地理的に板挟みになって巻き込まれ、1777年頃から戦火は拡大していきます。

 ところが、植民地の正規軍は西部戦線に戦力を割く余裕がありません。開拓地のクラークは、1778〜79人に175名のバージニア民兵隊を率いてカスカスキア砦(現イリノイ州)とビンセンス砦(現インディアナ州)を攻略し、イギリス軍のオハイオ川とミシシッピー川の制水権を奪いました。

 しかし、主にインディアンが相手の戦闘では、植民地側は一貫して劣勢でした。特に1781年のヨークタウンの戦いで勝敗が事実上決した後の独立戦争最終盤で、植民地のオハイオ遠征軍は致命的な敗北を喫し、ケンタッキーの開拓地は攻め込まれて手痛い敗戦を重ねていたのです。

独立戦争と北西インディアン戦争(⇒拡大


北西インディアン戦争


ファイル:Northwest-territory-usa-1787.png

北西部領土

 独立戦争の西部戦線は、インディアンに有利でした。ところが、1783年のパリ条約で、イギリスは(インディアンに断わりもなく)オハイオほかの北西部領土を新生アメリカ合衆国に譲ってしまいます。

===== 戦争の再発 =====

 オハイオのインディアンにとっては、戦闘に勝って領土を失う納得がいかない終戦…しかも、イギリスは現デトロイトや現オハイオ州トレド、現インディアナ州ラファイエットやフォートウェインに砦を残し、毛皮交易を通じてインディアンに武器を供給し続けていました。

 1785年に「西部インディアン同盟」が結成され、当初は散発的ながら開拓地への襲撃が再開されました。同盟には、アメリカが新たに得た北西部領土で暮らす部族ばかりでなく、カナダインディアンや南部で武闘派のチカモーガ・チェロキー族やアッパー・クリーク族も加わっていました。

 1786年、戦士が留守中のショーニー族の村をローガン将軍が焼き払い、婦女子を殺戮したのがきっかけで戦火が拡大します。1780年代後半は、インディアンに襲われたケンタッキーの開拓者やオハイオ旅行者の犠牲の数が1500人に上りました。

===== リトルタートルの攻勢と変心 =====

Little Turtle

Anthony Wayne

 1790年、ついにアメリカはマイアミ族とショーニー族の中枢(現フォートウェイン)を攻めることにしました。しかし、ハーマー准将の派遣部隊は敗退。次いで翌年も、マイアミ族のリトルタートルら2千人のインディアンの奇襲で、セントクレア少将率いる部隊約1200名が全滅。二度の失敗に懲りたワシントン大統領は、次の作戦には時をかけました。猛将ウェイン少将がじっくり2千の兵を訓練し、1794年に新砦フォートリカバリー(挽回の砦)に陣取ります。

 リトルタートルは、予備的攻撃で兵力の差を悟り、その後は戦闘継続に消極的になります。代わってインディアン同盟を指揮したショーニー族のブルージャケットは、現トレド方面に進軍した連邦軍と戦い、短時間で敗退。イギリスの砦に逃げ込もうとしますが、砦の司令官に断られます…ヨーロッパでフランス革命政府と戦争中のイギリスは、余計なことでアメリカと問題を起こしたくなかったからです。

===== グリーンビル条約 =====

 1795年のグリーンビル条約で、アメリカは北西部の現トレド周辺を除くオハイオの大半を獲得します。当時のオハイオは、南東部をマサチューセッツのオハイオ・カンパニーが購入、南西部(現シンシナティ方面)は独立戦争で戦功を上げたバージニア民兵に分配、北東部(現クリーブランド方面)はコネチカット州が領有権を主張、既に三方面から入植が進んでいました。

 その後、オハイオは1803年に北西部領土から分離して、合衆国17番目の州となります。独立戦争の後で、入植が始まった地域としては最初の州です。ちなみに独立13州の次の14番目は独立戦争時にはニューヨークやコネチカットともめていたバーモント州、15番目はバージニアから独立したケンタッキー州、16番目は南西領土から


インディアン文化への回帰


 オハイオでは白人の入植が進み、インディアンが食料源と頼る鳥獣が激減していました。インディアンの生活は洋化し、ウィスキーの酒害が家族や部族の絆をボロボロにしました。毛布・金属性の日用品・ビーズ飾りを得るために、他部族と土地をめぐる戦争が起きるようになっていました。

 しかし、中西部のインディアンのうちリトルタートルのように白人に同化する道を選んだのは少数で、大多数の人々は躊躇していました。1790年代には、イロコイ連邦でにハンサムレイクという宗教指導者が現れ、インディアン文化への回帰を訴えた先例もありました。

Tenskwatawa

Tecumseh

===== 預言者テンスクワタワ =====

 ショーニー族のテンスクワタワも「預言者(The Prophet)」のひとりで、1805年に突然覚醒し、アルコールや(自衛のための銃を除き)白人がもたらしたものを捨て、狩猟と伝統的な農業に励み、古来の平穏な共同生活に戻るよう提唱しました。

 さらに、テンスクワタワは白人との交易や婚姻を禁じ、周囲の部族にも白人への土地売却を止めるよう呼びかけます。そのうちに、テンスクワタワの崇拝者が、魔女狩りで白人追随者を殺すようになりました。

 オハイオでは白人入植者との緊張が高まり、1808年にテンスクワタワは現インディアナ州ラファイエットに移住して「プロフェッツタウン(預言者の町)」を開きます。

===== 軍事・政治指導者テカムセ =====

 有名なテカムセは、テンスクワタワの兄で、弁舌の立つショーニー族の軍事・政治指導者でした。1809年からテカムセは各地の部族を精力的に歴訪し、インディアン同盟の再結成に努めます。

 しかし、インディアナ準州のハリソン知事(後の第9代合衆国大統領)は、インディアンの体制が十分に整う前に先制しました。1811年11月、テカムセが南部各地を歴訪して留守の間にテンスクワタワを誘い出し、ティペカヌーの戦いに破りプロフェッツタウンを焼き払ってしまいました。


テカムセ戦争(1812年戦争デトロイト戦線)


 ヨーロッパではフランスをめぐる戦乱が再点火していました。1806年にナポレオンは大陸封鎖令でイギリス経済に打撃を与えようとしましたが、翌年イギリスは枢密院令(自由拿捕令)でフランス支配下の大陸諸国を逆封鎖します。

 そのためアメリカ商船がイギリスに拿捕され、しかも船員が連れ去られる事件が相次いで起きました。戦時下のイギリスは船員不足で、イギリス生まれの船員のアメリカ国籍を認めなかったのです。

 今では日本でも当たり前に使われている「タカ派(War Hawks)」という言葉は、この時にできました。アメリカ議会では、インディアンと対峙する西部と南部選出の若手議員を中心に好戦論が湧き起こり、1812年6月にアメリカはイギリスに宣戦布告します。

===== アメリカのデトロイト無血開城 =====

デトロイトの降伏

 当時のアッパーカナダ(現オンタリオ州)は、入植者の大半が独立戦争時代の王党派難民でした。1812年戦争(米英戦争)では、「反米」を旗印にカナダに初めての国民意識が芽生え、住民がイギリス軍やインディアンと団結してよく戦ったと言われています。

 逆に、簡単にカナダを奪えると楽観していたアメリカは、前線では宣戦布告のニュースをイギリス軍に先に知られてしまうほどの不始末で、緒戦はカナダ側に先手を取られます。ヒューロン湖とミシガン湖をつなぐ水路の要衝マキノー砦と、さらにイリノイ川経由でミシシッピー川とつながる地現シカゴのディアボーン砦を失ってしまいました。

 残る五大湖最大の拠点デトロイトを守るアメリカ北西軍のハル司令官は、ミシガン南東部をインディアンから購入した功績者でした。しかし、越境してイギリス軍の砦を落とすことができず、8月にはデトロイトをイギリス・インディアン混成軍に包囲され、戦わずして撤退してしまいます。

青字 アメリカ軍の勝利 赤字 イギリス・インディアン軍の勝利

===== リメンバー・ザ・レーズン =====

 後釜の司令官はティペカヌーの戦いに勝ったインディアナ準州知事のハリソンで、現トレド付近に進撃してメイグス砦を築き、デトロイトのイギリス軍に対峙しました。

 しかし、翌年1月にレーズン川のほとりで起きたフレンチタウンの戦いでは惨敗してしまいます。経験の浅い民兵千人の部隊のうち約3百人が戦死。残りほぼ全員も捕虜となり、歩けなくなった負傷者約百人はインディアンの手で虐殺されました。

 余談ですが、その後の戦争では「リメンバー・ザ・レーズン」がスローガンになります。後のテキサス独立戦争の「リメンバー・ジ・アラモ(メキシコ軍に全滅させられた砦)」、米西戦争の「リメンバー・ザ・メイン(キューバの暴動鎮圧のため派遣され原因不明の爆発で沈没した巡洋艦…開戦の口実)」、太平洋戦争の「リメンバー・パールハーバー(日本の真珠湾攻撃)」、アフガン戦争・イラク戦争の「リメンバー・9/11(同時多発テロ)」…一連のフレーズの先例となります。それほど、テカムセたちインディアンの残虐さが際立つ戦闘だったようです。

===== テカムセの戦死 =====

William H. Harrison

 しかし、その後のイギリス・インディアン軍はメイグス砦包囲戦を2度試みて失敗、160人のスティーブンソン砦を1400人の兵で攻め切れず戦線は膠着状態に陥ります。逆にエリー湖の海戦に負けてイギリス海軍が制水権を失い、物資の補給路を絶たれて弱気になったイギリス軍は、デトロイトから撤退します。

 1813年10月、テカムセがテームズ川の戦いで戦死してインディアン同盟は雲散霧消してしまいます。アメリカは準備不足でデトロイト方面の緒戦に失敗し、その後の五大湖東部とセントローレンス川方面作戦でも深くカナダに侵攻することはできませんでした。

 当初はアメリカに有利だった大西洋の海戦も、1813年にヨーロッパでフランスの勢いが衰えてからは、イギリスが艦隊を増派。1814年には陸戦隊の上陸を許し、首都ワシントンのホワイトハウスが焼き討ちされるところまで追いつめられました。

 とはいえ、イギリスも好きで始めた戦争ではありません。米英ともに戦争を続ける財政的なゆとりはなく、1814年末に米英戦争は戦前の国境を維持する形で終戦します。

 テカムセ戦争の前線から帰ったソーク族のブラックホークは、ミシシッピー川上流域でイギリスを助けて戦っていました。しかし、ウィスコンシン川河口のプレーリードゥシーン砦などこの地域の要衝も、例によってインディアンへの相談なしに、アメリカに返還されてしまいます。


ブラックホーク戦争


 @フレンチ・インディアン戦争Aポンティアック戦争Bダンモア戦争C独立戦争西部戦線D北西インディアン戦争E1812年戦争(テカムセ戦争)を合わせて60年戦争と呼ぶ人々もいます。

 アメリカ中西部のインディアン戦争は、1620年代にインディアン社会の内戦(ビーバー戦争)で始まり、次いで英仏植民地戦争に巻き込まれ、親英のイロコイ連邦と親仏の反イロコイ連邦インディアンに分かれて戦われました。

 しかし、60年戦争の間に真の敵はアメリカ(西部開拓者)であることが明らかになり、保守派は部族を越え団結して戦いましたが、多くは白人文化を捨て切れずアルコールと装飾品や日用品を得るために土地を切り売りして崩壊していったといえましょう。

===== インディアンと白人が対立する原因 =====

 インディアンと白人が対立した根本原因は、インディアンのコミュニティが狩猟と原始的な農業で糧を得る一種の共産社会だったのに対して、農業技術に勝る白人社会は土地を個人所有し、その土地で得られた作物や家畜の肉も個人所有するのが当たり前だったからです。そのため白人側が土地を買ったつもりでも、インディアン側は一時的に貸しただけのつもりという誤解が繰り返され、お互いが不信感を増殖させました。

 もう一つの誤解は、インディアン社会が合議制で、白人社会のように、部族を代表して重要事項を決められる人物がいなかったことで生じました。つまり、白人側は条約を結んだつもりでも「オレはいいよ」という意味に過ぎず、土地を共有する仲間の中から「オレは聞いてないぞ」という異議が出てくるわけです。

トランシルバニア植民地憲法会議

 ケンタッキーをめぐるインディアンと開拓者の対立は、正にその典型例でした。特にケンタッキー一帯を購入する「条約」は、開拓者ダニエル・ブーンと親しい投資家がチェロキー族と私的に交わしたもので、白人側から見ても法的に疑義がありました。そもそも、イギリスも各地の植民地政府も「条約」にかかわっておらず、チェロキー族の中でも武闘派のドラッギングカヌーは売却を拒否していたのです。

 ケンタッキーの開拓者は、1775年にトランシルバニアという名の植民地を設立しますが、そのままでは独立戦争でイギリスを相手に戦う13植民地の仲間に入れてもらず、既述のように、新カウンティとしてバージニア州に編入してもらう道を選びました。

===== ポーテージデスー条約 =====

 独立戦争後のアメリカは、正式な条約なしにインディアンの土地を蚕食しないと約束していましたが、元は共有地ですからその後もトラブルが付きまといました。

 テカムセ戦争は、オハイオに続いて、インディアナ南部に開拓者が押し寄せていた時代に起きましたが、この頃、既にイリノイやルイジアナ買収で得たミシシッピー川以西の領土で、広大な土地が購入されていました。すぐに紛争が起きなかったのは、オハイオやインディアナに比べ、まだ開拓者の関心が低かったからに過ぎません。

Treaty of St. Louis

 特に大きなところでは、1804年にソーク族とフォックス族が、東西をイリノイ川とミシシッピー川に挟まれ、南北をミズーリ川とウィスコンシン川に仕切られる地域(右図)を、また1809年にはオセイジ族が現ミズーリ州とアーカンザス川以北の現アーカンソー州に当たる地域を、アメリカに譲渡しています。

 ところが、こうした条約には、当事者扱いされなかった部族の不満があったのでしょう。アメリカは、1815年にセントルイス北部のポーテージデスーで、新たにポタワトミ、スー、アイオワなどを加えた周辺11部族37酋長を招き、あらためて既に割譲されて得た領土を追認してもらいます。インディアン戦争の意味合いでは、これが1812年戦争(米英戦争)を終戦させる条約だったわけです。

===== ブリティッシュ・バンド(イギリス部族) =====

Black Hawk

 イギリス軍とともにミシシッピー川上流域で最後まで戦っていたソーク族のブラックホークは、すぐには招請に応じません。翌1816年にしぶしぶ署名したときには、ポーテージデスー条約に調印する最後の酋長になっていました。

 しかし、アメリカもソーク族には配慮して、当面は立ち退かず従前通りの暮らしを続けるよう特別に認め、しばらくは平和な時代が続きます。

 問題が再燃したのは1828年。とうとう開拓者がイリノイ北西部に進出してきて、ソーク族はミシシッピー川以西に引越さなければなりませんでした。

 ブラックホークは1767年生まれですから、当時はもう65歳。一度は部族を引き連れて対岸に移住しましたが、故郷を懐かしむ想いは捨てられません。1832年に挙兵して、かつて共に戦ったイギリスの軍旗を押したてて戦いました。

 この戦争には、当時23歳のリンカーンが民兵の指揮官として従軍したことでも知られています。実戦には出くわしませんでしたが、後の政治家の経歴に花を添えました。そういえば、リンカーンは1809年にケンタッキーで生まれ、1815年にインディアナ、さらに1830年にはイリノイへと移住し、少年期を正に西部開拓地の最前線で過ごしてきた人物です。

 この戦争は、ブラックホークに従った戦士5百名と婦女子ら千名のうち約5〜6百名が落命し3ヶ月足らずで終わりましたが、ブラックホークら幹部は捕えられ翌年には首都ワシントンに送られ、まもなく釈放されます。

 その後は、大建造物が林立するボルチモア、フィラデルフィア、ニューヨークでディナーや観劇の接待を受け、戦艦や軍隊のパレードを見物する機会を与えられましたが、逆にインディアンを見たことのない東部の人々の奇異の目にさらされたようなきらいもありました。

 ジャクソン大統領には、アメリカの大都会をインディアンの実力者に見せて、白人に力で抵抗する無意味さを理解させようとする意図があったようです。