今年の7月1日は「自治領」建国150周年のカナダデー
英仏の争いでマチマチな過去を抱く植民地が連邦化
今から150年前…1867年の7月1日に英領北アメリカ法が施行され、セントローレンス川上流・下流のカナダ連合植民地と、沿海地方の2植民地が連邦化し、自治領カナダ(Dominion of
Canada)が誕生しました。今年のカナダデーは、建国150周年の節目の祝日です。
建国4州
Ontario, Quebec,
New Brunswick, Nova Scotia |
時は明治維新の前年…建国に参加したのは、アッパーカナダ(オンタリオ州の前身)とロワーカナダ(ケベック州の前身)のカナダ連合と、ノバスコシア、ニューブランズウィックの計3植民地でした。
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カナダ植民地の成り立ち =====
カナダ史については別に詳しく記述しますが、現在の州の名前でも知らない方が多かろうと思いますので、取敢えずザッとご説明します。
図1ハドソン湾会社太平洋路線(⇒拡大)
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図2セントローレンス川流域(⇒拡大)
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図3セントローレンス湾周辺(⇒拡大)
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ニューファンドランド植民地
コロンブスの新大陸発見からわずか5年後の1497年にイギリスが雇った探検家のカボットが発見(図3)。沖には世界有数の漁場があり、英・仏・スペイン・ポルトガルの漁師が魚の加工のために立ち寄るようになった。17世紀には英仏の植民地が混在する状況が続くが、アン女王戦争(1702~13年)に勝ったイギリスが領有権を確立した。
A
沿海(マリタイム)植民地
フランス領時代にはアカディア植民地と呼ばれたノバスコシア・ニューブランズウィック・プリンスエドワード島の3植民地。北部のケープブレトン島を除くノバスコシア植民地は、フランスがフレンチ・インディアン戦争(1754~63年)に負け北米から撤退するより一足早く、ニューファンドランドと同じくアン女王戦争後に英植民地となった。
フレンチ・インディアン戦争が始まると、イギリスに忠誠を誓わないフランス系住民はアカディア全域から追放された。若干の住民が戦後に帰還し、イギリス系住民を避け、図3の黄色の地域を中心に再入植した。
B
カナダ連合植民地
セントローレンス川下流域のロワー・カナダ(図2)では、仏領時代に入植したカトリックのフランス系住民が、英領植民地となってからも住み続けた。当時はセントローレンス川上流域のアッパー・カナダ(図2)では、まだ住民がまばらな時代だった。独立戦争(1775~83年)でイギリス軍に味方した王党派アメリカ人の一部が移住して来た。1840年に両カナダで連邦を結成し、フランス系急進派を除く大連立内閣により、アメリカの脅威に備えた。
C
ハドソン湾会社植民地(ルパートランド)
ルパートランドはイギリスの勅許会社ハドソン湾会社の私有地で、ルパートは初代総督カンバーランド公の名前。ウィニペグ湖の南のレッド川周辺(現ウィニペグ…図1)には、毛皮商人とインディアンとの混血のメティが中心の植民地(マニトバ州の前身)ができ、イギリスのハドソン湾会社がハドソン湾からネス川を上る水上ルート、フランス系でモントリオールの北西会社は陸上ルート経由で、それぞれ交易していた。
ハドソン湾会社は、アメリカのオレゴントレイルより20年も早く、サスカチュワン川からコロンビア川に抜けるルート(図1)を開拓し、西海岸の社有コロンビア交易地区(アメリカ式の呼び名はオレゴンカントリー)と行き来していた。しかし、1840年代からアメリカの移住者が急増し、米英お互いに全域の領有を主張しにくい状況となって、オレゴン協定により北緯49度線で国境を定めた。1856年に現バンクーバー付近で金鉱が見つかってアメリカ人探鉱者が殺到する事態となり、国境を守るためハドソン湾会社の私有地から急遽イギリスの直轄植民地とした。1866年にバンクーバー島植民地と合併。ブリティッシュ・コロンビアの名は、単純に「英領コロンビア地方」の意。
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各州のフランス語人口と公用語 =====
下表のように、フランス系住民が残ったケベック州(旧ロワー・カナダ)では、今でも93%の住民の母語がフランス語で、公用語もフランス語のみ。アカディアからいったん追放されたものの帰還したフランス系住民が特に多いニューブランズウィックでは31.6%の住民の母語がフランス語で、公用語は英語とフランス語。
数は少ないが旧アカディア帰還住民の子孫が住むノバスコシア州とプリンスエドワード島や、フランス系メティの血を引く人たちが住むマニトバ州では3~4%代の住民の母語がフランス語、ただし公用語は英語のみといった具合です。
州名 |
連邦加盟 |
中心都市 |
州都 |
フランス語人口 |
公用語 |
オンタリオ(アッパーカナダ) |
1867年7月 |
トロント |
トロント |
4.4% |
英語 |
ケベック(ロワーカナダ) |
1867年7月 |
モントリオール |
ケベックシティ |
93.0% |
仏語 |
ノバスコシア(沿海) |
1867年7月 |
ハリファックス |
ハリファックス |
3.8% |
英語 |
ニューブランズウィック(沿海) |
1867年7月 |
セントジョン |
フレデリクトン |
31.6% |
英語・仏語 |
マニトバ(レッド川) |
1870年7月 |
ウィニペグ |
ウィニペグ |
3.8% |
英語 |
ブリティッシュコロンビア |
1871年7月 |
バンクーバー |
ビクトリア |
1.6% |
英語 |
プリンスエドワード島(沿海) |
1873年7月 |
シャーロットタウン |
シャーロットタウン |
4.1% |
英語 |
サスカチュワン |
1905年9月 |
サスカトゥーン |
レジャイナ |
1.9% |
英語 |
アルバータ |
1905年9月 |
カルガリー |
エドモントン |
2.2% |
英語 |
ニューファンドランド・ラブラドル |
1949年3月 |
セントジョンズ |
セントジョンズ |
0.6% |
英語 |
北西準州 |
1870年7月 |
イエローナイフ |
イエローナイフ |
2.9% |
英語・仏語・先住民諸語 |
ユーコン準州 |
(1898年6月) |
ホワイトホース |
ホワイトホース |
4.8% |
英語・仏語 |
ヌナブト準州 |
(1999年4月) |
イカルイト |
イカルイト |
1.4% |
英語・仏語・先住民諸語 |
軍事・経済で自立し、隣国アメリカの脅威に対抗するねらい
影の議題は東西植民地を貫く鉄道インフラの整備
初期のカナダ史は、英・仏の本国政府と植民地人と英・仏と同盟するインディアンが、六つどもえで戦った複雑な歴史ですが、カナダの立場から見ると、カナダはほぼ一貫して受け身で、アメリカには侵略される立場でした。フランス領時代にはイギリス植民地の民兵、カナダがイギリス領と替わってもアメリカ独立軍や愛国派の民兵、アメリカが独立を果たしてからはアメリカ軍と、名を変えても攻めてくるのは常に「サウス・オブ・ザ・ボーダー(国境の南)」…カナダ人がアメリカを指していう口語表現ですが、しばしば「迷惑な隣人」というニュアンスが込められているような気もします。
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アメリカのカナダ併合論 =====
米英戦争(1812~14年)ではヨーク(現トロント)が焼き討ちされるなど、特にアッパーカナダ(現オンタリオ州)がひどくやられました。アメリカはカナダ人の間にも反英感情が強く、進んでアメリカに合邦しようと言い出すと期待していたようですが、とんだお門違いです。アッパー・カナダや沿海部には、独立戦争でイギリスに味方した王党派アメリカ難民が4万人も流入して、むしろカナダには反米の国民意識が芽生えていました。
ところが、米英戦争後の政治経済は、アッパー・カナダでもロワー・カナダでも、本国の権威を借りた一握りの権力者が牛耳るようになり、イギリス政府への不満が高まりました。1837~38年に各地で相次いで起きた共和主義者の武装蜂起はいずれも不首尾に終わりますが、イギリスはリベラルな総督を派遣して行政の公正化に努め、カナダの独立機運を鎮めました。
この間、イギリスは1842年にアメリカと条約を締結してロッキー山脈以東の米加国境を確定し、併せて五大湖の共有について合意。1848年にはオレゴン協定でロッキー山脈以西の国境も定め、米加間の領土紛争の懸念は取敢えず遠のきました。
しかし、南北戦争(1861∼65年)でイギリスは表向き中立を貫いたものの、カナダとともに南部連合に寛容な態度が見え隠れしたことから、またまたアメリカ人の反英感情に火が付き議会でカナダ併合論が飛び出す事態に発展します。そこでイギリスは、それまでの分割統治政策を見直しました。本国の力だけでカナダは守り切れません。カナダが自立的にアメリカに対抗する経済力・軍事力をつけるよう期待し、北米植民地の連邦化を支持し軍事・外交を除く広範な自治を認めることにしたのです。
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シャーロットタウン会議 =====
といっても、個々の植民地の利害は必ずしも一致せず対米危機感の程度にも温度差があります。1837~38年に反乱が相次いだアッパー・カナダとロワー・カナダは、1841年に既に連邦化しカナダ連合(United
Province of
Canada)を結成していました。これに対し、仏領時代のアカディアから分かれたノバスコシア、ニューブランズウィック、プリンスエドワード島の3植民地は互いに関係も深く、カナダ連合とは別に沿海同盟(Maritime
Union)を結成しようと、代表がプリンスエドワード島のシャーロットタウンに集まります。アメリカでは、南北戦争で南軍の敗色が次第に濃くなってきていた1864年9月のことでした。
ところが会議には、招かれていなかったはずのカナダ連合代表が飛び入りし、全てのカナダ植民地が参加する新連邦の結成に向け議論をリードしました。影の議題は、鉄道の敷設です。アメリカでは急速に鉄道網が発達し、5年後の1869年には大陸横断鉄道が東西を貫通したほどでした。しかし、カナダでは、川の対岸が米ミシガン州の国境の町サーニアから、トロント経由でモントリオールに至る鉄道が、1860年にやっと全通したばかり。しかも鉄道会社も、後ろ盾の植民地政府も財政破綻寸前という情けない状況です。イギリスに頼らずアメリカに対抗するには、カナダ植民地が一つにまとまり、沿海植民地から西海岸まで鉄道で結ばれた強い経済圏を創設するしかありませんでした。
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ケベック会議 =====
Intercolonial
Railway |
翌月、オブザーバー参加のニューファンドランドも含め、全植民地の代表があらためてケベックシティに集まり、カナダ憲法の基礎となる72条のケベック決議を採択しました。ロワー・カナダからニューブランズウィック経由でノバスコシアに至るインターコロニアル鉄道(植民地間鉄道)を敷設する約束も含まれています。
アッパーカナダは中央集権による強国建設を目指しましたが、これにはフランス系住民の多いロワー・カナダも、歴史・文化の異なる沿海3植民地も強く抵抗したので、アメリカ流の連邦制を取りつつも州議会の立法権は最小限に止めることになりました。
日本語では同じ「州」でも、アメリカのステート(国家)やコモンウェルス(共和国)に対し、カナダの「州」はプロビンス。元はローマの属州や、アメリカの植民地時代には王領直轄植民地などに使われた言葉で、より中央集権的なニュアンスが含まれています。
連邦議会もアメリカ流の二院制ですが、議席配分は下院が人口比例で、上院がアッパー・カナダとロワー・カナダ・沿海3植民地からそれぞれ24名、ニューファンドランドが連邦に加わる場合は4名と決めました。詳細は下表の通りで、沿海3植民地とニューファンドランドの発言力は大きく劣ります。
議席数 |
Upper
Canada |
Lower
Canada |
Nova
Scotia |
New
Brunswick |
Prince
Edward Island |
Newfoundland |
下院 |
82 |
65 |
19 |
15 |
8 |
5 |
上院 |
24 |
24 |
10 |
10 |
6 |
4 |
詰まるところ150年前のカナダ建国は、対米危機意識が強く一足先に連邦化したカナダ連合が、ロワー・カナダのフランス系急進派を除いて大連立内閣を組み、イギリスと語らって他の植民地を吸収合併する試みだったともいえましょう。
となれば、沿海3植民地とニューファンドランドの民衆や議会が、こぞって連邦加盟に反発したのも不思議ではありません。しかし、ノバスコシアとニューブランズウィックは借金で首が回らない状況。そこで、カナダ連合はイギリスに手を回して両植民地に圧力をかけ、何とか加盟賛成に舵を切り替えさせたのです。イギリスも、カナダには経済的にも軍事的にも自立してほしいと思うようになっていました。
時は1866年、アイルランド系アメリカ移民のフェニアン団という武装組織が、故郷のアイルランドをイギリスの支配から解放するため、国境沿いのイギリス植民地に侵入し人質代わりに占拠しようとしました。アメリカ軍の手で襲撃は鎮圧されますが、南北戦争で鍛えられたフェニアン団と対決したカナダの民兵隊は、ふがいなく敗北を重ねました。この事件で民衆の対米危機感が高じたことが、ノバスコシアとニューブランズウィックの方針転換を大きく後押ししました。
アッパー・カナダとロワー・カナダがカナダ連合を解体し、元に戻ってそれぞれオンタリオ州とケベック州と名乗ることも決まりました。アメリカと国境を接せずフェニアン団来襲の脅威が低く、直接インターコロニアル鉄道の恩恵を得ることもないプリンスエドワード島とニューファンドランドは、協議から撤退しました。
長かった完全独立への道のり…仏系住民に今もくすぶる不満
カエデの新国旗は1965年、自主憲法は1982年
自治領カナダの発展
(⇒拡大) |
1866年12月、イギリス政府と各植民地の代表はロンドンに集まって法案を起草しました。英領北アメリカ法はイギリス議会で可決され、ビクトリア女王の勅許により翌年3月に成立。冒頭ご説明の通り、7月1日に施行され、自治領カナダが誕生しました。しかし、軍事・外交では依然としてイギリス政府に従属する植民地で、真の独立を果たし自主憲法を制定するまでには、まだまだ長い道のりが残っていました。
さて、自治領は右図のように北米植民地を統合していきます。詳しい事情はひとまず抜きにして、時系列でご説明しましょう。
結成から3年後の1870年には、ハドソン湾会社所有の広大な土地(ルパートランド)が30万ポンドで自治領に譲渡されます。旧イギリス領の北西領土と合併し、新たに自治領の北西領土と生まれ変わりました。その中からウィニペグ湖南部のレッド川植民地が分離して、マニトバ州として連邦に加わります。
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大陸横断鉄道 =====
翌1871年には、負債の肩代わりと大陸横断鉄道敷設の約束を引き換えに、ブリティッシュコロンビアも連邦に加盟。1873年にはプリンスエドワード島が、鉄道負債の肩代わりと不在地主の土地買い上げ資金の支援を条件に加盟。イギリスと直接的な結びつきが強いニューファンドランドを除き、7年がかりで現カナダの骨格が出来上がりました。
1885年時点の大陸横断鉄道路線(⇒拡大)
Vancouver,
British Columbia~(Canadian Pacific)~Winnipeg, Manitoba~(米国路線)~Chicago,
Illinois
~(Grand
Trunk Western Railroad)~Port Huron, Michigan~(Grand Trunk
Railway)~Point Levi, Quebec
~(Intercolonial
Railway)~Harifax, Nova Scotia
緊張した米加関係も、1871年に米英がワシントン条約で和解、南北戦争でイギリスが南軍の軍艦を建造したアラバマ号事件が決着し、フェニアン団のカナダ襲撃も終息したことから平穏に戻ります。鉄道の敷設で両国の経済的な結びつきも深まり、1895年にはアメリカがカナダ警戒目的で五大湖の要衝に設けていたマキノー島砦も撤収されました。長きにわたり米加間の人口移動は大幅なアメリカの流入超でしたが、1890年代にカナダ経済が力強く成長を始める一方でアメリカではフロンティアが消滅し、多くの農民が未開拓の土地を求めてカナダの大平原に移住して行くようになりました。
人口が増えた大平原の植民地は、1905年にアルバータ・サスカチュワンの2州に分割の上で、連邦に加盟しました。1907年にニューファンドランドはラブラドルを伴い、カナダとは別個のイギリス自治領となりましたが、世界恐慌による経済危機を乗り越えられず1934年にいったんイギリスの直轄植民地に戻ります。第二次世界大戦後の1949年に住民投票を実施し、カナダに1州として合流しました。
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軍事的な自立 =====
自治領カナダ結成後、イギリス軍は徐々に数を減らし本国に帰還していきました。カナダは従来の民兵隊を常備民兵隊(Permanent
Active
Militia)として組織し直し、これは1940年に改称してカナダ陸軍(Canadian
Army)となりました。フェニアン団の襲撃に対処しレッドリバーと北西領土の反乱を鎮圧した後、第二次ボーア戦争(1899∼1902年)では他の大英帝国諸国とともに南アに派兵し、イギリス軍の指揮下で戦いました。カナダ海軍(Royal
Canadian
Navy)は、1906年にイギリス海軍を完全撤収した際に創設されました。
第一次世界大戦(1914∼18年)はイギリスの対独宣戦布告でほぼ自動的に参戦したようなものの、カナダ軍が初めてカナダ人指揮官の下で戦った戦争でした。結果的に出征した67万人の兵士のうち6万5千人が戦死、15万人が負傷しました。開戦から3年後の1917年に参戦したアメリカが、戦死者11万7千人と21万人の負傷者を出したのは210万人もの大軍を派兵したせいですが、当時の人口比は
加7百万人vs.
米9千2百万人でしたから、連合国の間で、カナダの国際貢献が高く評価されたことは想像に難くありません。オーストラリア、ニュージーランド、南アら他のイギリス自治領も同様で、大戦後にできた国際連盟にはカナダとともに、独立国家の扱いで加盟します。
その後、イギリスは1931年のウェストミンスター憲章で海外自治領政府を本国政府と同格と定め、カナダは軍事・外交もひとりで決められる独立した主権国家と国際的に認められました。カナダ人が、カナダ国籍のパスポートを持てるようになったのもこの時です。第二次世界大戦の開戦時に、カナダはイギリスから7日遅れで対独宣戦布告しましたが、これも軍事・外交上の独立を国際的にアピールするためだったそうです。
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新国旗と自主憲法 =====
旧国旗 |
新国旗 |
戦後の経済成長と自由主義的政治の成功はカナダの国民意識を高めました。それまでの国旗は旧英領諸国で普遍的な左上に英国旗を掲げたデザインでしたが、1965年には、中央に真っ赤なメープルリーフを配したカナダ国旗が誕生します。
独立の総仕上げは1982年の自主憲法制定で、カナダは、わずかながら残っていたイギリス議会の呪縛から完全に解き放たれました。しかし、フランス系住民の一部には未だに強い歴史的な不満や怨念が残っていて、ケベック州の分離独立を目指すケベック党は、不況のたびに勢いを盛り返します。ケベック州だけは、誕生して35年経った今に至っても、自主憲法を批准することができずにいます。
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