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2018年4月15日 (第140号)

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社 会

歴 史

 オランダ史B-2 首都ウィーンを何度も追われた弱いハプスブルク家

 事業家フッガー家にチロル銀山の採掘を許し財政改善

 ハプスブルク家のマクシミリアンがブルゴーニュ公国のマリー女公と結婚し、フランドルの反乱や対仏戦争に直面することになったのは1477年でしたが、その頃、父の皇帝フリードリヒ3世はオーストリア‐ハンガリー戦争(1477~88年)の当事者で、息子のトラブルにはかまっていられない状況でした。

===== オーストリア3公国とハンガリー・ボヘミア =====

 話はさかのぼりますが、フリードリヒ3世の又従兄弟で先代皇帝のアルブレヒト2世は、母方のルクセンブルク家から継承したハンガリーとボヘミアの王位を持っていました。1439年にアルブレヒト2世は亡くなり、王妃は王の死後に生まれた乳児ラディスラウスをハンガリーの新王に立てようとしますが、王位は必ずしも世襲ではなく、その頃オスマントルコの脅威にさらされていたハンガリーの諸侯は、既に新王にポーランド王のウラースロー1世を選んでいました。

ハプスブルク家系図 (⇒拡大)

 そこで、2年にわたる王位争いの内戦が起こります。勝ったのはウラースロー1世でしたが、1444年のオスマントルコとの戦いであっさり戦死。結局、幼いラディスラウスが王位に就くことになりましたが、王妃は既に他界しており、その時は後見人のフリードリヒ3世がラディスラウスを幽閉し、自領の内オーストリアに加え幼王が相続したはずの本オーストリアを実効支配していました。

*本オーストリアは、オーストリア固有の領土(旧オーストリア辺境伯領)を、前オーストリア内オーストリアと区別するために便宜的に使用した呼称で、一般的ではありません。

オーストリアの現国境とハプスブルク家の3公国(⇒拡大)

オスマントルコの版図(⇒拡大)

 幼王不在の間、ハンガリーでは1441年に南部(現セルビア領)でオスマントルコを撃退した指揮官フニャディを摂政に選びました。一方、1452年に12歳になったラディスラウスは拘束を解かれてハンガリーに赴いたものの、本オーストリア公とボスニア王を兼ね、もっぱらプラハやウィーンで暮らしました。フニャディは1552年に摂政を退いた後も総司令官を務め、軍事技術の革新とボスニア傭兵の活用などの策によりハンガリーを守り抜きましたが、1456年のベオグラード防衛戦に勝利した直後に病死してしまいます。

 代わって実権を握ったラディスラウスの母方の従兄でオーストリア(スロベニア)貴族のウルリクは、早速フニャディ派の弾圧に取りかかりましたが、逆に暗殺されてしまいます。すると今度は、当時まだ16歳のラディスラウスが不穏な状況に怯え、翌1457年にフニャディの長男を理由もなく王命で処刑。結果は大反乱が起きて、ラディスラウスはプラハに逃亡、同じ年に白血病で亡くなりました。

 おかげで、フリードリヒ3世は本オーストリアのウィーンに戻ることができましたが、かねてより所領分与を求めていた弟のアルブレヒト6世が反乱を起こし、上オーストリア(本オーストリア西部)を獲られてしまいます。さらに1462年に弟は下オーストリア(本オーストリア東部)に侵攻し、兄の留守中にウィーンを制圧。しかし、苛政を敷いたために市民の手で暗殺され、フリードリヒ3世は再びウィーンに戻りました。

===== オーストリア‐ハンガリー戦争(1477~87年) =====

 一方、ラディスラウスの死は、ボヘミア(チェコ)で穏健なフス派(プロテスタントの先駆け的な異端のキリスト教宗派)の国王イジーを誕生させました。イジーは過激なフス派を弾圧しカトリック教会と和解しようと努めましたが、教皇は1466年にボヘミア王を破門して廃位すると宣言。すると、教皇派貴族の反乱が起き、皇帝フリードリヒ3世はボヘミアの教皇派に加勢しますが、その反撃で1468年にボヘミアの国王軍がオーストリアに侵攻しました。困ったフリードリヒ3世は、ハンガリーに加勢を求めます。

 1458年にハンガリーで新王に選出されたフニャディの次男マーチャーシュ1世は、ドラキュラのモデルとなったワラキア(ルーマニア南部)のヴラド3世を上手に使い、直接手を下さずにオスマン勢力を撃退するかたわら、黒軍の名で知られる強力な軍隊を築いていました。次期皇帝の座を約束するローマ王への推薦を餌にちらつかせるフリードリヒ3世の説得に、マーチャーシュ1世は黒軍の方向を転じてボヘミアの反乱に加勢し、ボヘミア東部のモラビア地方を制圧。教皇派貴族はマーチャーシュ1世を国王に選び、ボヘミアに二人の王が並立する事態になりました。

 ところが、当時ハンガリーの自治領だったクロアチアの貴族がオスマントルコの脅威に怯え、皇帝の了承の下にベネチアに助けを求め、ベネチアがアドリア海の沿岸の町セニを奪おうとしました。その頃から、皇帝とハンガリー王の関係に亀裂が生じ始めます。フリードリヒ3世はローマ王推薦の話も反故にしました。1471年にイジーが他界し、フス派の国王はポーランド王の長男で、母系でハプスブルク家の故アルブレヒト2世(ローマ王・ハンガリー王・ボヘミア王)の孫に当たるウラースロー2世が継ぎ、両派の戦争は1478年まで続きます。

 その間、シャルル突進公のブルゴーニュ戦争に巻き込まれていたフレデリック3世は、ボヘミアに深入りせずにいましたが、1477年になって一転し皇帝の名でフス派のウラースロー2世をボヘミア王として認めました。これに怒ったマーチャーシュ1世は下オーストリアに侵攻し、ウィーンを孤立させます。教皇の仲裁で和解が成立し、フス派のウラースロー2世はボヘミア固有の領土、ハンガリー王で教皇派のマーチャーシュ1世はモラビアその他の地域を統治し、皇帝はハンガリー王に賠償金の銀貨10万枚を支払い、両王がボヘミア王を名乗ることを認めることになりました。

 しかし、賠償金は半額しか支払えませんでした。ハンガリーの黒軍は1481年に再びオーストリアに侵攻し、1485年には首都ウィーンを奪います。息子マクシミリアンが、フランドルの第一次反乱をようやく切り抜けた年のことです。下オーストリアの議会はマーチャーシュ1世に忠誠を誓い、フレデリック3世は上オーストリアに逃れました。

1490年マーチャーシュ1世死亡時のハンガリー  とハンガリー占領地(オーストリア  /モラビア  /シレジア  /ラウジッツ 

ハプスブルク家   ボヘミア クロアチア  ベネチア   オスマントルコ    スペイン(カスティージャ  /アラゴン) ⇒拡大

===== フランドルの第二次反乱(1487~92年) =====

 フレデリック3世はといえば、まずハプスブルク家の皇帝世襲を確実にして、戦費を調達することから始めるしかありません。1486年にボヘミア王を除く6名の選帝侯(ローマ王の選挙権を持つ諸侯)全員を説得し、息子のマクシミリアンをローマ王(皇帝継承者)に即位させることに成功しました。 

 しかし、ハプスブルク家の自領に関わる戦費をドイツ諸侯から調達するのは容易ではありません。やむを得ずマクシミリアンは直轄領のネーデルラント(低地諸国)で課税を強化しましたが、折からのインフレや疫病の流行に苦しんでいたフランドルの職工らが反乱を起こし、1488年にマクシミリアンは拘束されてしまいます。

 カトリックの権威の下に戴冠し、実権に限りはあっても、ドイツ・イタリアの諸侯を束ねる皇帝の継承者の虜囚を許しては、中世西欧の封建制度が崩壊してしまいます。反乱軍の暴挙は、ドイツ諸侯ばかりか教皇やスペイン王にまで強く非難され、鎮圧のため2万名の帝国軍が派兵されました。フランドル諸都市も自らの反乱で通商が途絶え経済的に窮していましたから、マクシミリアンから自治権拡大の空約束を取付け、ひとまずは和解します。3ヶ月余りの幽閉を経てマクシミリアンは解放され、帝国軍も当面の目的を果たしていったんは引き揚げましたが、対立は蒸し返され、帝国軍の将が反乱軍に寝返り内戦は長引いて続きました。

===== ハンガリー継承戦争(1490~94年) =====

 自由の身になったマクシミリアンは、南ドイツに転じて諸紛争を収め、父の従弟の前オーストリア公から買い上げたチロル領のインスブルックを拠点にハンガリーへの反攻を準備します。アウグスブルクの実業家フッガー家にチロル銀山の開発を許し、フッガー家から上納される採掘料が、その後のハプスブルク家の財政を支えるようになりました。

 一方、下オーストリアでは、1487年にハンガリー王マーチャーシュ1世が、議会にオーストリア大公の称号を許され、皇帝とも半年間の休戦協定を結んで以降、戦争は膠着していました。ところが、1489年に痛風が悪化し歩行が困難になるにつれ、まだ48歳でしたが、子のない王妃と王の間で、王位継承問題が浮上してきていました。王に即位した1458年の平和条約で、王が嫡出男子なしに死去した場合は、皇帝かその子のマクシミリアンが王位を継承することに決まっていました。そこで王は、ハンガリーの下オーストリア撤退を条件に、平民の愛人が産んだ庶子のジョンにボヘミアとクロアチアの王位継承を認めるよう皇帝に求めましたが、約束を果たすことなく翌1490年に急死してしまいました。

ハンガリー黒軍(1454~90年) ⇒拡大

ハンガリー黒軍(1490~94年) ⇒拡大

 王は死の床でハンガリー王位のジョンへの譲位を遺言しましたが、王位は王妃の意向も絡みつつ、マクシミリアンと、先々代のローマ王でハンガリー王・ボヘミア王のアルブレヒト2世の孫に当たるボヘミア王ウラースロー2世と、その弟のポーランド王太子ヤン(後の1世)との継承争いになります。ジョンは首都ブダから逃亡し、黒軍の部隊はそれぞれの陣営に寝返り、分裂し、給与の遅配により略奪を繰り返すようになって、その後1494年までに自壊しました。

 マクシミリアンは1490年のうちに下オーストリアを回復し、上オーストリアに逃れていた父の皇帝フレデリック3世は、ウィーンに三度目の帰還を果たしました。ハンガリーの新王には最終的にウラースロー2世が即位し、ナポリ王家出身で資産家の王妃がボヘミア王と再婚し、広大な所領を持つ庶子のジョンが王に臣従を誓う条件で、一件落着します。その後王妃は子を授からずに他界しますが、次の王妃とウラースロー2世の間に生まれた王女がマクシミリアンの孫フェルディナント1世と結婚し、ハンガリーとボヘミアの王位は再びハプスブルク家に戻ってきます。

===== ドナウ川流域の地理と言語 =====

ドナウ川流域地図…数字は標高(m) (⇒拡大)

 横道にそれるので詳しくは述べませんが、歴史的なハンガリーは、地理的に西をアルプス山脈、北と東をカルパチア山脈、南をディナル・アルプス山脈に囲まれた地域で、中央アジアの異民族がたびたび侵入し、ドナウ(ダニューブ)川流域の広大な平原を拠点に西欧各地を征服して、栄枯盛衰を繰り返しました。

 ハプスブルク家の発祥地はスイスのチューリッヒに近いライン川支流に沿う山岳地帯。フランク王国の中心のライン川下流やパリ盆地から見て、辺境のウィーン周辺はオーストリア(東の王国)と呼ばれていましたが、ドナウ川を中心に見るとドイツのババリア(ミュンヘン地方)やスワビア(スイスの語源)への入口です。

インド・ヨーロッパ語族 (⇒拡大)

インド・イラン語イタリック語ゲルマン語スラブ語

 中世に栄えたフランドルのブルッヘやアントワープには、ドナウ川支流のアルトミュール川をさかのぼり、分水嶺を徒歩で越えてマイン川支流のレグニッツ川を下ると、南ドイツの商業拠点ニュルンベルクで、さらにマイン川を下ってフランクフルト、ライン川を下ってケルンから陸路というルートでつながっていました。今は両大河が、ライン‐マイン‐ドナウ運河でつながっています。

 現スロバキアの首都ブラスチラバでドナウ川に注ぐモラバ川の流域がモラビア(現チェコ)です。分水嶺を越えてエルベ川の上流がボヘミア(現チェコ)、オーデル川の上流がポーランドのシレジアです。

 言語的には、ドイツとオーストリアがドイツ語、旧ユーゴスラビアとブルガリア、チェコ、ポーランド、ウクライナ、ベラルーシはロシアと共通のスラブ語系言語ですが、ルーマニアはイタリア語に近縁の言語、ハンガリーはフィンランド語やエストニア語と近縁のウラル語系言語ですが、各国に少数派言語が入り混じっています。

===== 仏独国境の見直し(1493年) =====

 同じ1490年に、最初の妻でフランドル女公のマリーと死別したマクシミリアンは、フランスを挟撃するためにブルターニュ公国の継承者アンヌと婚約していましたが、翌1491年に仏シャルル8世がブルターニュへ侵攻し、アンヌに強引に結婚を迫りました。シャルル8世は、既にマクシミリアンの娘マルグリットと形だけの結婚をしていたわけですが、教皇が特別に離婚を許可し、アンヌとの結婚が成立してしまいました。

 その上、シャルル8世は離別した王妃を帰さずに、仏貴族と再婚させることにより、持参金として割譲した旧ブルゴーニュ公国領をフランスに残そうと企んだので、マクシミリアンは激怒してフランスと開戦。ネーデルラント(低地諸国)に取って返し、まずフランドルの反乱の鎮圧に取り組みました。第二次反乱の広がりは第一次反乱以上で、ブラッセルほかの都市や、ホラントの保守派貴族がフランドル側に加わりましたが、引続きアントワープはマクシミリアンの味方でした。

 マクシミリアンは、アントワープと貿易の絆で結ばれたイングランドの海軍の支援を得て、ブルッヘの通商ルートを海上封鎖。経済的に息の根を止められたフランドルは、マクシミリアンが息子フィリップ美公の摂政として執政するのを承認するしかなく、1492年に反乱は終息。

 翌1493年には、もともと神聖ローマ帝国領のブルゴーニュ伯領を武力で奪還しました。フランスはマクシミリアンに妥協して、マルグリットと持参金の一部のブルゴーニュ伯領とアルトワ伯領(図B斜線部)を返還。実効支配の状況に合わせて仏独国境も見直し、フランドルは初めて神聖ローマ帝国領に入りました。

 これにて、マクシミリアンが実父と義父から引き継いだ東西の広大な領地がようやく平定されました。1493年にフリードリヒ3世が亡くなり、マクシミリアン1世は晴れて神聖ローマ皇帝に即位します。1494年にフィリップ美公が16歳に達し、皇帝は摂政を退きましたが、既にフランドルに対するハプスブルク家の支配はゆるぎなくなっていました。